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[[画像:Josephine de beauharnais.jpg|thumb|180px|right|ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]]
'''ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ'''('''Joséphine de Beauharnais'''、[[1763年]][[6月23日]] - [[1814年]][[5月29日]])は、[[フランス]][[皇后]]。[[ナポレオン・ボナパルト]]の妻。
 
フランス領[[西インド諸島]][[マルティニーク]]島の生まれ。結婚前の正式名は'''マリ・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジェリ'''('''Marie Joséphe Rose Tascher de la Pagerie''')であった。裕福な[[貴族]]の娘でエキゾチックな美貌の持ち主だったものの、大変な浪費家でもあった。
 
[[1779年]]にアレクサンドル・ド・ボアルネ[[子爵]]と結婚、一男[[ウジェーヌ・ド・ボアルネ|ウジェーヌ]](1781([[1781]] - [[1824年]])、一女[[オルタンス・ド・ボアルネ|オルタンス]](1783([[1783]] - [[1837年]])をなしたが、当初から二人は夫婦仲が悪く、1783年に離婚した。後にボアルネ子爵は、[[フランス革命]]中の[[1794年]][[7月23日]]に[[ギーヌ]]で処刑されてしまう。離婚後マルティニーク島の実家に戻っていたジョゼフィーヌも、島での[[暴動]]の多発に不安を感じ、フランスに戻ったが、カルム監獄に投獄されてしまう。しかし、[[マクシミリアン・ロベスピエール|ロベスピエール]]の処刑により8月3日に釈放された。
 
その後、総裁政府の[[ポール=フランソワ=ジャン=ニコラ・ド・バラス|バラス]]の愛人となっていたところを、年下のナポレオンの求婚を受け[[1796年]]に結婚。この結婚について、ウジェーヌは反対、オルタンスは賛成だったと伝えられている。しかし、彼女はナポレオンを無骨でつまらない男と見ており、次々と愛人を作り浮気を繰り返した。そうしたこともあって、ナポレオンの母や兄弟姉妹たちとの折り合いは悪かった。
 
[[エジプト遠征]]中に、ジョゼフィーヌと美男の[[騎兵]][[大尉]]イポリット・シャルルとの浮気を知ったナポレオンは、フランスに帰国後さすがに離婚を考えたようである。しかし、彼女の連れ子のウジェーヌとオルタンスの涙ながらの嘆願と、ジョゼフィーヌへの愛から離婚は思い止まった。ジョゼフィーヌはこの頃から徐々にナポレオンを真摯に愛するようになっていくのだが、反対にナポレオンのジョゼフィーヌに対する熱烈な愛情は冷めていき、他の女性達に関心を持つようになっていく。
 
なお、この直後の[[ブリュメールのクーデタ]]の際には、クーデタ成功のための要人対策にジョゼフィーヌも一役買っている。
 
その後、妹のカロリーヌから紹介されたエレオノール・ドニュエルやポーランドの愛人[[マリア・ヴァレフスカ]]との間に息子が生まれた事などもあり、[[1809年]]に嫡子が生まれないことを理由にナポレオンはジョゼフィーヌを離縁。それ以降、彼女は[[パリ]]郊外の[[マルメゾン宮殿]]で余生を送ったが、死ぬまで[[皇帝]]の妻として「皇后」の称号を保持し続けていた。
 
彼女は大変に[[バラ]]が好きで、二百五十250種類のバラを庭に植えていたという。また自らバラを愛でるだけでなく、後世の人々のためにと、集めたバラを植物画家[[ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ|ルドゥーテ]]に描かせて記録に残している。
 
== 家族 ==
ジョゼフィーヌが前夫ボアルネ子爵との間にもうけた娘オルタンスは、ナポレオンの弟[[ルイ・ボナパルト]]と結婚して[[オランダ]]女王となり、後に[[皇帝]][[ナポレオン3世 (フランス皇帝)|ナポレオン3世]]を生んだ。しかし、後に息子のとなるルイ=ナポレオン(ナポレら三人の男子を生んだ。[[1810年]]にルタ3世)を連れて、スはルイ・ボナパルトと離婚し、三男であったルイ=ナポレオンはオルタンスが引き取って育てた。
 
また、ジョゼフィーヌの息子ウジェーヌは、ナポレオンの[[養子]]となり[[イタリア]][[副王]]にまで出世した。
その後は、[[バイエルン王国|バイエルン]][[国|王]][[ヨーゼフ・マキシミリアン1世]]の娘のアウグスタ王女と結婚し、その娘のジョゼフィーヌは後の[[スウェーデン]]王[[オスカル1世]]の王妃となった。
 
同じくマルティニーク生まれの従妹エイメ・デュビュク・ド・リヴェリは若くして行方不明になったが、のちに[[オスマン帝国]]の第30代君主[[マフムト2世]]の母后[[ナクシディル・スルタン]]になったと信じられている。