「ジョアンナ・ヒファーナン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m ボット: 言語間リンク 6 件をウィキデータ上の d:Q457483 に転記
編集の要約なし
17行目:
1861年の夏にホイッスラーとともにフランスを訪れ、1861年冬から1862年にかけてバティニョール大通りのスタジオで『'''白のシンフォニー第1番-白の少女'''』のモデルを務めた。このフランス滞在中にホイッスラーの友人で同僚の画家の、後にヒファーナン自身がその作品でモデルとなる[[ギュスターヴ・クールベ]]と出会ったのかも知れない。
 
1863年にヒファーナンとホイッスラーは[[交霊会]]に参加するために、イギリス人画家・詩人だった[[ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ]]の[[チェルシー (ロンドン)|チェルシー]]の邸宅を訪れ、その後1865年の夏と秋をフランスのトゥルーヴィル=シュル=メールで過ごしている。1866年にホイッスラーが7ヶ月間南米の[[バルパライソ]]に滞在していたときにはヒファーナンに全権を与え<ref name=glasgow/>、家計の一切とホイッスラーの絵画作品を自由に売る許可を出した。
 
[[Image:Courbet Sleep.jpg||thumb|left|『眠り』クールベ(1866年)]]