「ヨハン・クリスチャン・ダール」の版間の差分

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==生涯==
=== 修業時代 ===
[[ノルウェー]]、[[ベルゲン]]の漁師の子として生まれる。決して恵まれた環境に生まれたとは言えず、後年『もし裕福な家の子供として生まれていれば、良い教師に恵まれ、今よりも良い絵が描けていただろう』と述べている。少年時代は[[聖職者]]になるための教育を受けていた。しかしそこで教師たちはダールに絵の才能を見出し、[[デンマーク]]の[[コペンハーゲン]]の絵画アカデミーに進学させたのである。当時はまだノルウェーはデンマーク領だった。陽気な性格のダールはコペンハーゲンにはすぐに馴染み、1年後の[[1812年]]には初めての展覧会を開くほどになった。そしてその3年後の[[1815年]]には[[クリスチャン8世 (デンマーク王)|クリスチャン・フレデリック王子]]が彼の[[パトロン]]につくことになった。この王子は[[1814年]]のほんの一時期、[[ノルウェー]]が[[スウェーデン]]に割譲されるまでノルウェー国王となっていた人物で、のちのデンマーク国王クリスチャン8世である。しかし単に金銭などの支援のみならず、身分を越えて非常に仲の良い友人となった。
 
[[1818年]]にドレスデンを訪れたダールは有力な市民や芸術家の歓迎を受けた。その中に生涯の友人であり師となる画家の[[カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ]]もいた。その地でフリードリヒらドイツロマン派の画家の強い影響を受ける。[[1820年]]にはドレスデンアカデミーの一員となった。
 
=== 近代ノルウェー絵画の父として ===
[[1821年]]2月、クリスチャン・フレデリック王子の誘いで[[イタリア]]に渡った。[[ナポリ湾]]の絵を描いたことが彼の大きな転機となる。ナポリの情景から特に思い返すこともなかった故郷ノルウェーの自然の素晴らしさを思い出したからだった。活動拠点をドレスデンに置き続けたが、ノルウェーにも頻繁に帰国して、その自然を描くようになった。
 
デンマーク領から、スウェーデン=ノルウェー二重王国に変わり、自治権が与えられた当時のノルウェーにおいては知識層の中で、民族主義の高まりがあった。その中で国家・民族に見合う芸術が模索されていた。ダールの風景画はそうした[[ナショナル・ロマンティシズム|民族的ロマン主義]]の勃興に大きな影響を与え、『ノルウェー風景画の父』と今日まで称されるに至ることとなった。ダール自身も近代ノルウェー絵画界における先駆者として、後進の養成、[[オスロ国立美術館]]の創立に寄与した。
 
==人名の表記について==