「サンジェルマン大通り」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
校正
1行目:
{{Coord|48|51|10.70|N|2|20|10.70|E|region:FR_scale:20000|display=title}}
[[画像:Paris-bld-saint-germain.jpg|thumb|right|250px|ビュシ通りとの交差点から眺めたサンジェルマン大通り]]
[[画像:2 mags.JPG|thumb|right|250px|レ・ドゥ・マゴ(カフェ)]]
[[画像:Floregermainbenoit.jpg|thumb|right|250px|カフェ・ド・フロール]]
[[画像:St Germain des Prés tour3.jpg|thumb|right|250px|サンジェルマン・デ・プレ寺院の鐘楼]]
'''サンジェルマン大通り'''( - おおどおり、'''ブールバール・サンジェルマン'''、仏:Boulevard Saint-Germain)は[[パリ]]、[[セーヌ川]]左岸にある大通りの名称。東は[[サン・ルイ島]]の先端に架かる[[シュリー橋]]から起こり、弧を描くように西行し、パリ5,6,7区を通って[[コンコルド橋]](右岸の[[コンコルド広場]]に渡る橋)で終わる。ほぼ中間のところで南北に走行するサンミシェル大通りと交叉している。
 
この通りは、通りの名の由来となった{{仮リンク|[[サンジェルマンプレ|fr|Quartier Saint-Germain-des-Prés}}]]地区や{{仮リンク|フォーブール・サンジェルマン|fr|Faubourg Saint-Germain}}地区(邸宅が多く、[[マルセル・プルースト]]の『[[失われた時を求めて]]』に描かれた)を通ることで知られる。
 
== 歴史 ==
サンジェルマン大通りの名は、中世([[6世紀]])から残る{{仮リンク|サンジェルマン・デ・プレ大修道院|fr|Abbaye de Saint-Germain-des-Prés}}(レンヌ通りが突き当たる場所に建つ)に由来する。通りの周辺はフォーブール・サンジェルマン(サンジェルマン・デ・プレ寺院の郊外の意、寺院の西側に拓けた)として知られる。
 
[[17世紀]]には、サンジェルマン地区は貴族の邸宅(''hôtels particuliers'')が集まる場所となった。19世紀になってもその状態は続いていたが、その頃には古くからの貴族街として、セーヌ川右岸の新興ブルジョアジー地区であるサン・トノレ大通り([[サントノレ大通り|ブールヴァール・サン・トノレ]])や[[シャンゼリゼ通り]]と対比された(例えば[[オノレ・ド・バルザック]]の小説に描かれている)。
 
[[1930年代]]以降、ここは夜の繁華街やカフェ、学生街(この通りは[[カルチエ・ラタン]]を通る)となっていった。[[「レ・ドゥ・マゴ」([[:fr:Les Deux Magots]][[カフェ・ド・フロール」([[:fr:Café de Flore]]をはじめとする多くのカフェが集まり、サンジェルマン地区は[[実存主義]]のメッカとなった([[ジャン=ポール・サルトル|ジャン=ポール・サルトル]]や[[シモーヌ・ド・ボーヴォワール]]にゆかりがあった)。第二次大戦後サンジェルマン大通りは、パリの知的・文化的地域となった。哲学者や作家、音楽家たちが通りに居並ぶナイトクラブや[[ブラッスリー]]に溢れていた。
 
現在のサンジェルマン大通りは[[ジョルジオ・アルマーニ]]から[[ソニア・リキエル]]までの店舗が並ぶ最高級商店街となっている。しかし知的・政治的な会合や夜会も、相変わらず無名のカフェで盛んに行われている。近くにはヨーロッパ有数の政治学教育機関である[[パリ政治学院]](略称"Science-Po")がある。