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[[Image:WilliamRowanHamilton.jpeg|thumb|right|180px|ウィリアム・ローワン・ハミルトン]]
'''ウィリアム・ローワン・ハミルトン'''(''William Rowan Hamilton''、[[1805年]][[8月4日]] - [[1865年]][[9月2日]])は、[[アイルランド]]・[[ダブリン]]生まれの[[イギリス]]の[[数学者]]、[[物理学者]]。[[四元数]]と呼ばれる高次[[複素数]]を発見したことで知られる。また、[[イングランド]]の数学者[[アーサー・ケイリー]]に与えた影響は大きい。
 
==概説==
幼い頃より神童として知られ、10歳で10カ国語([[英語]][[ラテン語]][[ギリシア語]][[ヘブライ語]][[アラビア語]][[サンスクリット語]]など)を操るなど才能は図抜けていた。本格的に数学を始めたのは15歳の頃で、当時最先端の[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ|ラグランジュ]]、[[ピエール=シモン・ラプラス|ラプラス]]の書物を学ぶ。この頃わずか16歳にしてラプラスの『天体力学』に誤りを発見し、専門家を驚かせた。大学入学後も圧倒的な才気を見せ、学部四年で天文台長に推挙されている。才能に溢れ、身体、精神共に快活なハミルトンは社交界でも人気を集め、親友の詩人[[ウィリアム・ワーズワース|ワーズワース]]は、ハミルトンと[[サミュエル・テイラー・コールリッジ|コールリッジ]]を挙げて「私の出会った最も魅力的な人物」とすら述べている。
 
[[光学]]への数学の応用、[[ハミルトニアン]]、数学理論による自然現象の予言、[[解析力学]]の創始、代数系の基礎付けなど、前半生の業績は非常に華々しく、「ニュートンの再来」と呼ばれた当時の評判に恥じない物がある。
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しかし当のハミルトンは、四元数の実用化に取り憑かれ、その後約20年を四元数の研究に費やすようになる。700ページを超す大著『四元数講義』は[[オーガスタス・ド・モルガン|ド・モルガン]]、[[ウィリアム・ハーシェル|ハーシェル]]らに難解と評され、『四元数の基礎』を著するがこれも長過ぎて生前に出版される事はなかった。
 
晩年のハミルトンは、[[アルコール中毒]]に溺れながら誰にも理解される事のない数学研究に没頭し、暴飲暴食による[[痛風]]に苦しんだ末に[[1865年]]にダブリンの自宅で息を引き取った。遺体が発見された時、ハミルトンの部屋は酒と肉汁にまみれた二百数十冊のノートで埋め尽くされており、この中には正しい物、誤った物、判断のつかない物が入り混じった数式の山が残されていたという。また四元数は一部に「四元数カルト」と呼ぶべき一団を構成するものの、大勢からは無視され、省みられるまでに100年ほどの時間を必要とした。
 
==関連項目==
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[[Category:19世紀の自然科学者]]
[[Category:19世紀の数学者|050804]]
[[Category:ダブリン出身の人物]]
[[Category:1805年生]]
[[Category:1865年没]]