「メンシェヴィキ」の版間の差分

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[[1905年]]のロシア第一革命のとき、メンシェヴィキ指導部は権力に参与せず「最も革命的な反対党として」とどまらなければならないとし、有効な活動をおこなうことができなかった。しかし党の下部では分裂が深まっていなかったために、ペテルブルク・ソヴィエトでは立場の違いを無視してボリシェヴィキと一緒に活動し、《北方の声Severnyi Golos》という共同の新聞を3号まで発行した。
 
[[1906年]]にボリシェヴィキとの会議を[[ストックホルム]]で、[[1907年]]に[[ロンドン]]で開催するが、ロシア帝国議会への対応をめぐって対立した。第一次世界大戦中、[[1915年]]の[[ツィンマーヴァルト運動#ツィンマーヴァルト会議|ツィンメルヴァルト会議]]に、マルトフら国際主義派がメンシェヴィキを代表して出席し、彼は戦争を「民族自決に基づいた、併合と賠償をともなわないブルジョア民主主義的な平和」をもって終わらせるよう主張し、メンシェヴィキの祖国防衛派は中央戦時工業委員会で資本家と結んで労働者グループを形成し、ロシア革命のブルジョア性についての教義はまったく変わりなかった。
 
==ロシア革命への対応と評価==