「三浦盛時」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 三浦 盛時
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[鎌倉時代]]中期
| 生誕 = 不詳
| 死没 = 不詳
| 改名 = 浄蓮(法名)
| 別名 = 五郎(通称)、三浦介
| 諡号 =
| 神号 =
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[従五位]]下、左衛門尉、相模介
| 幕府 = [[鎌倉幕府]]
| 主君 = [[藤原頼経]]→[[藤原頼嗣|頼嗣]]→[[宗尊親王]]
| 藩 =
| 氏族 = [[佐原氏]]→[[相模三浦氏]]
| 父母 = 父:[[佐原盛連]]、母:[[矢部禅尼]]
| 兄弟 =[[佐原 猪苗代経連|経連]][[比田広盛]][[藤倉盛義]]<br>[[佐原蘆名光盛|光盛]]、'''盛時'''、[[佐原時連|新宮時連]]<br/>異父兄:[[北条時氏]]
| 妻 = 正室:'''[[北条時員]]の娘'''
| 子 =[[三浦 重連|重連]]、'''[[三浦頼盛|頼盛]]'''
| 特記事項 =
}}
 
== 生涯 ==
[[貞永]]元年([[1232年]]、将軍[[藤原頼経]]が[[鶴岡八幡宮]]を参詣する際に[[供奉人]]として参列したのが史料の初見となる。[[仁治]]2年([[1241年]]、頼経が[[明王院]]北斗堂の供養の為に行列を組んだ時は御家人役の一人に名が見える。[[宝治合戦]]後の元年([[1247年]][[宝治合戦]]後の[[京都大番役]]の再編の際には三浦介として御家人役を分担し、[[建長]]4年([[1252年]]に[[宗尊親王]]が鶴岡八幡宮に参詣した際には後陣の随兵として名が見える。
 
母の矢部禅尼は最初[[北条泰時]]に嫁いでいたが、離縁して[[佐原盛連]]に再縁したという経緯を持つ。両者との間に[[北条時氏]]盛時ら兄弟を儲けており、盛時は時氏と異父兄弟の関係にあった。それゆえ得宗との血縁的な結びつきが強かった。
 
そのためか、宝治合戦では嫡流の[[三浦泰村|泰村]]らとは袂を分かち、佐原流三浦一族を率いて甥の[[北条時頼]]に与した。合戦に先んじて、時頼は盛時を[[陸奥国]]糠部五戸郡の[[地頭代]]に任命しており、既に盛時は時頼に懐柔されて[[得宗被官]]になっていたという。
 
宝治合戦の直前、津軽の海辺に「人間の死骸のような」魚が漂着するという事件があった。盛時はこの顛末を時頼に報告し、更に、[[奥州合戦]]の直前にも酷似した現象があったことから、合戦の予兆であるとも指摘した。この話は『[[吾妻鏡]]』に収録されており、盛時が宗家の泰村の「征伐」を時頼に教唆したことを示すものではないかとも解釈されている<ref>『時頼と時宗』55ページ、『吾妻鏡事典』275ページ</ref>
 
合戦当日、盛時の兄弟を含む佐原一族は時頼の与党と共に時頼の館に結集したが、盛時自身は何らかの事情があって参戦に遅刻したらしい。遅れた盛時は屋敷の塀を乗り越えて時頼の館に到着し、この行動に感嘆した時頼から盛時は鎧を賜った。
宝治合戦で三浦一族が滅びると、三浦介に任命され、三浦宗家の家督を継承した。盛時は三浦介、三浦家棟梁としての扱いを受ける一方で、将軍の鶴岡八幡宮参詣や[[放生会]]などでは随兵の役目しか回されず、宝治合戦で滅びる前、三浦氏がまだ隆盛していた頃の厚遇を受けることはなかった。三浦介となり、三浦宗家を継承したが、待遇そのものはあくまで佐原氏時代のものが踏襲されたという<ref>『北条氏系譜人名辞典』三浦盛時の項</ref>。
 
[[弘長]]3年([[1263年]]に時頼が没すると、兄弟の蘆名光盛・新宮時連と揃って出家し、浄蓮と号した。
 
== 脚注 ==
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