「丙辰丸の盟約」の版間の差分

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'''丙辰丸の盟約'''(へいしんまるのめいやく)とは、[[1860年]]9月([[万延]]元年7月)に軍艦「[[丙辰丸]]」の艦上で結ばれた、[[尊王攘夷]]派の[[長州藩]]士と[[水戸藩]]士等の[[幕政改革]]についての密約である。'''成破の盟約'''あるいは'''水長盟約'''とも呼ばれる。
 
盟約に携わったのは、長州藩士の[[松島剛蔵]](「丙辰丸」艦長)と[[木戸孝允|桂小五郎]]、水戸藩士の[[西丸帯刀]]・[[岩間金平]]・[[園部源吉]]及び[[結城藩]]士の[[越惣太郎]]で、[[佐賀藩]]士の[[草場又三]]が仲介役を務めた。最終的な交渉場所として選ばれたのは、[[江戸]]への練習航海で[[東京湾]]に碇泊中の長州軍艦「丙辰丸」で、機密保持の目的であった。同じく機密保持の為、会合の名目は長州産の[[塩]]と水戸産の[[ダイズ|大豆]]の取引交渉とされていた。
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協定の内容は両藩が提携して急速に幕政改革を行うというものであった。世の中をかき乱し(破)、混乱に乗じて改革を成し遂げる(成)という計画で、水戸が「破」を長州が「成」を役割分担すると決められた。あくまで幕政改革を行うことが目的で、[[幕藩体制]]そのものを破壊する[[討幕運動]]を趣旨とするものではない。
 
しかし、盟約は結ばれたものの、実際に両藩の中枢まで含めた行動指針には至らなかった。長州藩では尊王攘夷派(所謂[[長州正義派|正義派]])と[[開国]][[佐幕]]派(所謂[[俗論党|俗論派]])の主導権争いの結果、開国佐幕派の[[長井雅楽]]の[[航海遠略策]]が藩是となった。その後は[[長州征討]]を経て討幕運動へと傾斜することになった。水戸藩でも尊王攘夷派([[天狗党]]等)と開国佐幕派(所謂[[諸生党]])の抗争が続いて主流とはならなかったが、尊王攘夷派にとっては行動の目的として意識されることになった。
 
== 参考文献 ==