「ケルト系キリスト教」の版間の差分

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'''ケルト系キリスト教'''(けるとケルトけい きりすとキリストきょう、'''Celtic Christianity''') は、[[ケルト]]系共同体によって受容され、実践された[[キリスト教]]である。'''ケルト教会''' ('''Celtic Church''') とも言う。[[中世]]前期の[[アイルランド]]から[[スコットランド]]、[[イングランド]]北部に広がり、その修道院制度は西ヨーロッパにも伝えられた。西欧の歴史から一度は消滅したこの流れが近年再びケルト教会として蘇っている。
 
== 中世ケルト教会 ==
古代の[[ローマ帝国]]時代のイングランドにはキリスト教が一時は広まったが、[[ローマ軍団]]が大陸に引き上げ、異教の[[アングロサクソン]]が侵入するとキリスト教はイングランドから消滅した。しかし、ローマ帝国の支配も受けず、アングロサクソンの侵入も受けなかったケルトの島アイルランドでキリスト教は生き残っていた。アイルランドにおけるキリスト教改宗には、[[ドルイド]]が中心になって行われた。つまり[[ケルト文化]]を残したままキリスト教化したのである。異教のアングロサクソン・イングランドを再び教化したのは、ローマ教皇[[グレゴリウス1世]]に派遣され、[[597年]]ケントに上陸した[[カンタベリーのアウグスティヌス]]が率いる宣教団だけではない。アイルランドから[[ヘブリディーズ諸島]]に渡った[[聖コルンバ]]が創建した[[アイオナ修道院]]はスコットランドを教化したし、アイオナからノーサンブリアに移植されたケルト教会である[[リンデスファーン修道院]]は北部イングランドを改宗させている。またこれらの修道院からケルト系修道院制度が海を渡って現在の[[オランダ]]や[[ドイツ]]にまで伝えられた。中世ケルト教会の中心となったアイオナ修道院やリンデスファーン修道院が9世紀に[[ヴァイキング]]の度重なる襲撃によって荒廃すると、いつしか[[ベネディクト会]]修道院にとって代わられ、ケルト系キリスト教は歴史から姿を消した。
 
== 中世ケルト教会の特徴 ==