「ルイジ・ピランデルロ」の版間の差分

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自宅で初等教育を受け、1880年に移住した[[パレルモ]]の高等学校に通った後、1885年、[[ローマ・ラ・サピエンツァ大学|ローマ大学]]に入学。ところが教師との衝突により、ドイツの[[ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン|ボン大学]]へ転校する。ここでは言語学を専攻し、哲学の学位を得る。イタリアに戻ったピランデルロは文学で生活していこうと考える。
 
1894年、父親の紹介により、彼の商売仲間の娘、アントニエッタ・ポルトラーノ(Antonietta Portulano)と結婚。妻は修道院で教育を受けたおとなしい娘であったが、ピランデルロとは全く面識がなかった。ローマに移住し、二人の息子と一人の娘をもうけた。
 
1904年、硫黄鉱山が洪水に見舞われ父親が破産する。結婚持参金の多くを投資していたアントニエッタも精神錯乱を起こす。ピランデルロはローマの女子高等学校で文学教師として働いたが、家庭ではしばしば理不尽な狂気の発作を起こす妻に対して、常にもう一人の自分を用意しておかなくてはならなかった(妻は精神病院に入院し、1959年に他界)。