「宇都宮錯乱」の版間の差分

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[[永正]]3年([[1506年]])、古河公方[[足利政氏]]と息子の[[足利高基|高基]]が家督を巡って対立する[[永正の乱]]が勃発すると、高基の舅であった成綱は高基支持を打ち出した。ところが、家中の実権を握る芳賀高勝は政氏支持であったためにこれに同意せず、宇都宮氏の家中は分裂状態になった。
 
永正9年(1512年)4月、宇都宮成綱が芳賀高勝を殺害、それをきっかけに芳賀氏が反乱を起こした。これを宇都宮錯乱と呼ぶ。また、この年に成綱は息子の[[宇都宮忠綱|忠綱]]に家督に譲っている。家督移譲の時期は不明であるが、忠綱の当主としての最古の発給文書<ref>永正9年3月7日付興禅寺宛安堵状</ref>は同年3月であるため、家督移譲はそれ以前に発生して芳賀高勝が関わっている可能性もある<ref>吉田、2012年、P218</ref>。高勝の殺害によって家中の実権を取り戻した宇都宮成綱は若い忠綱を後見する形で芳賀氏の鎮圧に乗り出すことになる。だが、家中の実権を握ってきた芳賀氏の勢力は宇都宮氏に匹敵するものになっており、成綱は足利高基や高基派の[[小田政治]]らの支援を受ける形<ref>古河公方家の内紛は宇都宮氏のみならず、関東諸大名の内紛や軍事衝突などの形でも波及していた。足利高基にとって成綱救援は、舅の救援であると同時に対立する芳賀氏=政氏派が下野国中央部を支配下に置くのを防ぐ意味も有していた(吉田、2012年、P216)。</ref>で永正11年(1514年)以降に積極的な攻勢に転じ、遅くても同年の7月には芳賀氏の反乱を鎮圧した<ref>「伊達家文書」某年(永正11年と推定)7月28日付伊達稙宗宛宇都宮忠綱書状</ref>。その後、政氏派である[[佐竹氏]]や[[岩城氏]]の侵攻を受けるものの、成綱・忠綱は8月16日の[[竹林の戦い]]、永正913年6月の[[縄釣の戦い]]にてこれを破って当面の危機を回避することになった。
 
芳賀氏の反乱を鎮圧した宇都宮成綱は[[芳賀高経]](景高の子・高勝の弟)・[[芳賀高孝|高孝]](景高の弟)を助命して宇都宮城に抑留し、まだ幼児であった末子の[[宇都宮興綱|興綱]]に芳賀氏を継承させ<ref>旧来、興綱は成綱の弟とされていたが、大永4年4月1日(朔)に出されたと比定できる長南三河守(上総武田氏一族)宛に出された足利高基書状(「東京大学史料編纂所所蔵幸田成文氏旧蔵文書」・『[[戦国遺文]]』古河公方編543所収)には宇都宮忠綱の失脚後に「名代若輩(若輩の当主代理)」が擁立されたことが記されており、忠綱・俊綱(尚綱)・興綱を実の兄弟(成綱の子)とする系譜の方が正しいことになる(江田、2012年、P249-252)。</ref>、実弟の[[塩谷孝綱]]に芳賀氏の所領を管理させた。成綱は永正13年([[1516年]])、宇都宮氏の混乱鎮静を見届けるかのように病死する。