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[[画像ファイル:ohatu_and_tokubei.jpg|thumb|200px|露天神の境内にあるブロンズ像]]
『'''曽根崎心中'''』(そねざきしんじゅう/[[旧字]]'''曾根崎心中'''、そねざきしんぢゅう)は世話物浄瑠璃(江戸時代における現代劇浄瑠璃)。一段。[[近松門左衛門]]作。[[1703年]][[元禄16)]]16竹本座初演の[[文楽|人形浄瑠璃]]・[[文楽]]。のちに[[歌舞伎]]の演目にもなる。相愛の若い男女の[[心中]]の物語である。
 
「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜」で始まる有名な道行の最後の段は「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」と結ばれ、お初と徳兵衛が命がけで恋を全うした美しい人間として描かれている。
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この演目を皮切りとして、「心中もの」ブームが起こった。近松の代表作の1つである『[[心中天網島]]』も[[享保]]5年([[1720年]])に発表されている。
 
またこうした心中もの<!-- は江戸時代末期という閉塞的な時代を背景に  (元禄~享保は江戸時代末期ではありません。)-->の流行の結果、来世で二人の愛が結ばれることを誓った心中事件が多発したため、江戸幕府は享保8年([[1723年]])より上演や脚本の執筆や発行を禁止すると共に、心中者の一方が生存した場合は極刑を申し渡し、双方生存の場合は晒し者にしたのち市民権を奪い、心中死した遺体は親族に下げ渡さず一切の葬儀を禁ずるなど、心中事件に対して苛烈な処置を行ったが、その後も[[江戸四大飢饉]]や[[天明の打ちこわし]]といった事件により民衆での心中は流行していた。
 
==あらすじ==
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== お初天神と久成寺 ==
[[ファイル:Tsuyu-tenjinsha haiden.jpg|thumb|left|]]
曽根崎心中の題材となった事件の現場。大阪市北区曽根崎2丁目の[[露天神社]](つゆのてんじんじゃ)のこと。事件の概要は[[元禄]]16年([[1703年]])4)47日に「天神の森(現在の社の裏手)」で、内本町平野屋の手代「徳兵衛」が堂島新地天満屋の遊女「お初」をその同意のもとに殺害し、同人もその場で自殺した相対死事件である。ところが、一月後[[近松門左衛門]]は暫く筆を休めていた後の作品として、この二人の悲恋を[[人形浄瑠璃]]『[[曽根崎心中]]』として発表した。この作品は近松の期待どおり、当時の世相人情の機微をつかみ大反響を得て大きな話題となった。また、事件の神社は一躍有名となり、その[[ヒロイン]]である「お初」の名前から以後今日に至るまで「お初天神」と通称されている。
平成16年(2004年)[[4月7日]]には301年祭として、露天神社境内にブロンズの慰霊像が建立され、平成17年(2005年)4月7日には「大阪伝統文化を育む会」の主催により写真展・資料展が開催された。<!--写真展の写真提供は、写真家の出上実氏-->
近松は、曽根崎心中の中でお初を「三十三に御身を変へ、色で導き情けで教へ、恋を菩提の橋となし、渡して観世音、誓ひは妙に有難し」とお妙の名と観音信仰(明治以前は[[神仏習合]]が常態であったので神社と分けて考えない)をかけ、「未来成仏疑いなき、恋の手本となりにけり」と結んでいる。
 
なお「お初」は天満屋での呼び名であり、墓所(慰霊碑)に記された[[久成寺]](大阪市中央区中寺)での戒名は妙力信女であることから「お妙」などが推測される。「お初」の墓石は天満屋が事件後に久成寺にたてたが、明治の[[廃仏毀釈]]などのため所在が不明となり  <ref>三善貞司『大阪伝承地誌集成』清文堂  ISBN978-4-7924-0647-9  C0521</ref> 、その後2002年(平成14年)「お初」の300回忌を機縁に、当寺の住職と檀家らの手により再建されている。
 
==現代に復活した『曽根崎心中』==
<!--演劇界でのアレンジとか海外公演とかも書けないでしょうか?-->[[画像ファイル:Ohatu Tokubei.jpg|thumb|記念碑]]
===復活公演===
江戸時代に初演を含め数回で禁止されたが、筋が単純であることもあって長く再演されないままだった。詞章は美しいため、[[荻生徂徠]]が暗誦していたとも言われる([[大田南畝]]「一話一言」)。戦後の[[昭和]]28年([[1953年]])に歌舞伎狂言作者の[[宇野信夫]]が脚色を加え、復活した。人形浄瑠璃では昭和30年([[1955年]])1月に復活公演が行われた。
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*お玉:[[青木和代]]
*おかよ:[[千葉裕子]]
*本家の主人:[[加藤茂雄]]
*手代市兵衛:[[山本廉]]
*町衆:[[伊藤正博]]
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*平野屋徳兵衛(主遣い):[[吉田玉男]]
*天満屋お初(主遣い):[[吉田蓑助]] (三代目)
*:[[吉田文雀]]
*:[[吉田文吾|吉田小玉]]<ref>製作時のクレジット。後の五代目文吾</ref>
*:[[桐竹紋寿]]
ほか
 
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== 参考文献 ==
{{Wikiquote|近松門左衛門}}
*松平進 編『新注絵入曾根崎心中』(平成10年([[1998年]])[[和泉書院]]
*『近松浄瑠璃集上(新日本古典文学大系91)』(平成5年([[1993年]]))[[岩波書店]]
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
<references/>
 
== 関連項目 ==