「ブレーズ・パスカル」の版間の差分

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後述して「[[懐疑主義|懐疑論]]・[[確率論]]」の節に示すようにパスカルが懐疑論を重要視していることと関連するのことであるが、上述のようなパスカルの態度は、後[[19世紀]]に登場する哲学者[[フリードリヒ・ニーチェ]]以後の哲学史において[[現代思想|現代哲学]]の流れにある「[[反基礎付け主義]]」を基調とするいわゆる「反哲学の哲学」<ref>[[木田元]]による『反哲学史』([[講談社学術文庫]]、2000年)や『哲学と反哲学』([[岩波現代文庫]]、2004年)を参照。</ref>に共鳴し、またはそれに先駆的であると言われることがある<ref>例えば、[[白水社]]イデー選書版の邦訳『パンセ』(由木康訳)に載せられている解説において、その旨が書かれている。</ref>。また、ニーチェ自身の思索においても、パスカル思想への関心は強く、パスカルからの影響が見られる<ref>ニーチェは時代を問わず様々な哲学者を引用して検証するが、中でもパスカルからの引用は数が多く、パスカルの文言が多用されている。そのことは、[[國分功一郎]]の『暇と退屈の倫理学』([[朝日出版社]]、2011年)などにおいて言及されている。</ref>。
 
=== 考える葦 ===
有名な「'''人間は考える葦である'''」とは、[[人間]]は[[自然]]の中では矮小な生き物にすぎないが、考えることによって[[宇宙]]を超える、というパスカルの哲学者としての宣言を表している。それは人間に無限の可能性を認めると同時に、一方では無限の中の消えゆく小粒子である人間の有限性をも受け入れている。パスカルが人間をひとくきの葦に例えて記述した文章は、哲学的な倫理、道徳について示した次の二つの断章である。そこでは、時間や空間における人間(《[[私]]》)の劣勢に対し、思惟における人間(《[[私]]》)の優勢が強調されている。
{{Quotation| 人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ねることと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。<br /> だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、225頁。}}
{{Quotation| 考える葦。<br /> 私が私の尊厳を求めなければならないのは、空間からではなく、私の考えの規整からである。私は多くの土地を所有したところで、優ることにならないだろう。空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、226頁。}}
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{{Quotation| 懐疑論者、[[ストア派|ストア哲学者]]、[[無神論|無神論者]]たちなどのすべての原理は真である。だが彼らの結論は誤っている。なぜなら、反対の原理もまた真であるからである。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、247頁。}}
 
パスカルは、自身が[[実験物理学|実験物理学者]]としての側面を持っているからということもあるが、個別の事物事象、個別的な事例への観察から[[帰納]]的な思弁を行う哲学者であり、その結果、「[[パスカルの賭け]]」などを含めて実存主義的な思索を残した。そして、完全に明晰な真理とされるものをも懐疑し続けた。これは、同時代(17世紀)の思想を代表する合理主義哲学者[[ルネ・デカルト]]が、「'''明晰判断'''」を重視する[[演繹]]的な[[証明]]によって普遍的な概念を確立しようとしていたことと比較して対極的である。
 
「パスカルの賭け」については、そちらの頁を参照されたい。
 
== 著書 ==