「宮澤健太郎」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
31行目:
==来歴==
[[長野県]]出身。[[長野県立岡谷南高等学校|岡谷南高]]3年の夏は[[全国高等学校野球選手権長野大会|県予選]]ベスト16で敗退。[[明治大学]]に進んだが当初は出場機会に恵まれなかった。徐々に力をつけ、4年次シーズンに主将に就任すると、春季リーグ戦でベストナインと首位打者を獲得した。<BR>
[[2003年]]に[[JX-ENEOS野球部|新日本石油]]入社。選手層の厚いチームで出場機会を増やしながら、[[第76回都市対抗野球大会]]([[2005年]])で初めて都市対抗に出場([[東芝硬式野球部|東芝]]の補強選手として)。翌[[2006年]]、[[大久保秀昭]]監督の就任にあわせて主将に就任すると、[[2012年]]まで計7シーズン主将を務めた。その間に2回チームは都市対抗を制している。チーム史上黒獅子旗を2回受け取った唯一の主将である<ref>[[グランドスラム (雑誌)|グランドスラム]]40号</ref>。また*[[第25回アジア野球選手権大会日本代表]]([[2009年]])では主将としてを務め優勝、ベストナイン*にも選ばれた。さらに[[第38回IBAFワールドカップ日本代表]](2009年)でも主将としてチームを牽引した<BR>
チームでは主に[[三塁手]]として試合に出場し、勝負強さから得点源である6番を任されることが多い。2005年以降都市対抗に連続出場を続けている。<BR>
 
社会人野球史上初、[[都市対抗野球大会]]、[[社会人野球日本選手権大会|日本選手権]]、[[JABA東京スポニチ大会]]の[[3大大会 (社会人野球)|3大大会]]ですべて首位打者を獲得した唯一の選手である。
 
 
都市対抗、日本選手権、スポニチ大会と3大大会で戦後、首位打者を日本で唯一獲得している選手。
 
チームでは主に[[三塁手]]として試合に出場し、勝負強さから得点源である6番を任されることが多い。2005年以降都市対抗に連続出場を続けている。
 
==日本代表キャリア==