「アンドリュス・アルギルダイティス」の版間の差分

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アルギルダスが1377年に死ぬと、その最年長の息子であるアンドリュスは、アルギルダスが後継に定めた異母弟[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヨガイラ]]と対立した。ヨガイラは大公位を継いだ時点では叔父のケーストゥティスから強力な支持を得ていた。アンドリュスはポラツク公国、[[モスクワ大公国]]、リヴォニア騎士団からなる反リトアニア同盟を組織して、ヨガイラとその支持者に対抗した<ref name=matu/>。モスクワ軍は1379年にリトアニア大公国の東部地域を攻撃した。アンドリュスの同母弟[[ドミトリユス・アルギルダイティス|ドミトリユス]]はアンドリュスの味方であり、[[トルブチェフスク]]と[[スタロドゥーブ]]をロシア軍から防衛することはしなかった<ref>{{lt icon}} {{cite encyclopedia | last=Jonynas | first=Ignas | editor=Vaclovas Biržiška | encyclopedia=Lietuviškoji enciklopedija | title=Dimitras | year=1933–1944 | publisher=Spaudos Fondas | volume=VI | location=Kaunas | pages=912–914}}</ref>。モスクワ軍は清涼地域に留まる事はせず、モスクワに退却した。このとき、アンドリュスとドミトリユスもモスクワ軍に随行した。ヨガイラは1379年9月29日、ドイツ騎士団との間に10年の年限のついた和平条約を結び、さらに1380年2月27日にリヴォニア騎士団とも和約を結んで、アンドリュスの結んだ反リトアニア同盟の切りくずしに成功した。ヨガイラはさらにジョチ・ウルスの権力者[[ママイ (キヤト部)|ママイ]]、[[リャザン公国]]の当主オレーグとも協力関係に入り、アンドリュスに対する包囲網を築いた。1380年、アンドリュスとドミトリユスはモスクワとジョチ・ウルスとの間で行われた[[クリコヴォの戦い]]に参加した<ref name=matu/>。ヨガイラの軍隊は戦場への到着が遅れたため、ジョチ・ウルス軍は大敗を喫した。
 
1381年、ヨガイラはアンドリュスのかつての領国だった[[ポロツク公国|ポラツク公国]]を、自分に忠実な弟[[スキルガイラ]]に与えようとした。スキルガイラが反抗するポラツクを包囲していたとき、叔父のケーストゥティスはヨガイラから権力を奪取すべく[[リトアニアの内戦 (1381年-1384年)|リトアニアの内戦]]を引き起こし、ヨガイラからリトアニア大公の地位を奪った。ポラツクの人々は、アンドリュスを再びポラツク公に据えることを決めたケーストゥティスに対し、自発的に臣従した。1381年から1385年にかけ、アンドリュスの消息を伝える史料は残っていない<ref name=lea/>。おそらく、アンドリュスはヨガイラとケーストゥティス、ヴィータウタス親子の争いに決着がつくのを待っていたと思われる。ヨガイラとヴィータウタスは1384年に一応の和睦を結んだ。1385年10月10日、アンドリュスはリヴォニア騎士団との講和条約に調印し、彼は騎士団に臣従する代わりに、ヴィータウタスやその他の敵対者から守ってもらうことになった<ref name=matu/>。この和約によれば、アンドリュスは騎士団の[[レーエン|封臣]]となり、ポラツクを封土として授けられることになっていた。ヨガイラがポーランドに赴いて[[クレヴォの合同]]条約に関する交渉を行っていたあいだ、アンドリュスは再びヨガイラに対して兵を挙げようと企んだ。1386年、アンドリュスはポラツクの南東部を攻撃した。アンドリュスの挙兵は、リトアニア大公国の中心部[[リトアニア公国]]を攻撃していたリヴォニア騎士団、そしてアルギルダスに[[スモレンスク公国]]を奪われ、[[ムスツィスラウ|ムシチスラウ]]を攻撃していたスモレンスク公[[スヴャトスラフ・イヴァノヴィチ|スヴャトスラフ]]の支持を得た<ref name=lea/>。
 
== 身柄の拘束と解放 ==