「ニコライ2世」の版間の差分

編集の要約なし
=== 帝国の崩壊 ===
[[ファイル:AlexeiNicholas1917.jpg|thumb|250px|1917年、トボリスクに監禁されたニコライ2世とアレクセイ]]
こうした状況下、[[2月革命 (1917年)|二月革命]]が起こり、3月8日にはペトログラードで暴動が起こると、ニコライ2世は首都の司令官に断乎たる手段をとるよう命じ、秩序回復のために大本営から首都にむけて軍をさしむけた。しかし、内閣は辞職し、軍に支持されたドゥーマは皇帝に退位と譲位を要求した。1917年[[3月15日]](ユリウス暦3月2日)、ニコライ2世は、最終的にはほとんどすべての司令官の賛成によって[[プスコフ]]で退位させられた。この時ニコライ2世は、本来後継者として予定されていた皇太子アレクセイではなく、弟の[[ミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918)|ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公]]に皇位を譲った。しかし、ミハイル大公は即位を拒否したため、ここに300年続いたロマノフ朝は幕を閉じ、ロマノフ家の人々は市民になった。ユリウス暦3月7日には[[ロシア臨時政府|臨時政府]]によって自由を剥奪され、[[ツァールスコエ・セロー]]に監禁された。元皇帝一家をイギリスに亡命させる計画もあったが、ペトログラードの[[ソヴィエト]]を中心として反対論があり、同年8月、妻や5人の子供とともに[[シベリア]]西部の[[トボリスク]]に流された。
 
=== 最期 ===
匿名利用者