「水野忠鼎」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 水野 忠鼎
| 時代 = [[江戸時代]]中期 - 後期
| 生誕 = [[延享]]元年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]([[1744年]][[6月26日]])
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| 兄弟 = [[浅野重晟]]、'''忠鼎'''、[[浅野長員]]
| 妻 = 正室:[[水野忠辰]]の娘(水野忠任の養女)
| 子 = '''[[水野忠光|忠光]]'''、[[内藤正国]]、[[水野忠方|忠方]]、[[水野忠寛|忠寛]]、[[米倉昌俊]]、<br/>[[内藤政環]]、娘([[石川総師]]正室)、<br/>娘([[水野貞利]]正室のち[[片桐貞彰]]正室)<br/>娘([[大岡忠正]]正室)、娘(水野忠純室)
| 特記事項 =
}}
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'''水野 忠鼎'''(みずの ただかね)は、[[肥前国|肥前]][[唐津藩]]の第2代藩主。忠元系水野家9代。
 
延享元年(1744年)、[[安芸国|安芸]][[広島藩]]主[[浅野宗恒]]の次男として生まれる。先代藩主の唐津藩主[[水野忠任]]の養子となり、安永4年([[1775年]])9月23日、先代藩主・忠任が[[隠居]]したため、そ養子してもない跡を継いだ。幕府では[[奏者番]]を勤め、藩政においては[[二本松義廉]]を登用して財政改革を行なったが、[[天明の大飢饉]]に見舞われて失敗に終わった。[[享和]]元年([[1801年]])に[[藩校]]・[[経誼館]]を設置している。
 
[[文化 (元号)|文化]]2年([[1805年]])9月5日に長男の[[水野忠光|忠光]]に[[家督]]を譲って[[隠居]]し、文政元年(1818年)に死去した。享年75。
 
 
{{唐津藩主|水野氏|2代|1775 - 1805}}
 
{{DEFAULTSORT:みすの たたかね}}
[[Category:浅野氏]]
[[Category:水野氏|たたかね]]
[[Category:江戸の大名唐津藩主]]
[[Category:譜代大名]]
[[Category:1744年生]]