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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 西尾 忠移
| 画像 =
| 画像サイズ =
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| 兄弟 = [[西尾忠雅|忠雅]]、'''忠移'''
| 妻 = 正室:'''千賀姫'''([[田沼意次]]の三女)
| 子 = [[西尾忠亮|忠亮]](次男)、千次郎、<br />娘([[西尾忠善]]正室)、隆姫([[酒井忠実]]正室)、<br />娘([[久世綏之]]正室)、娘([[松平乗譲]]正室)<br />養子:'''''[[西尾忠善|忠善]]'''''
| 特記事項 =
}}
 
'''西尾 忠移'''(にしお ただゆき)は、[[遠江国|遠江]][[横須賀藩]]の第4代[[藩主]]。横須賀藩西尾家7代。
 
== 生涯 ==
延享3年(1746年)、第3代藩主[[西尾忠需]]の次男として生まれる。[[明和]]2年([[1765年]])10月に兄の[[西尾忠雅|忠雅]]が早世したため、12月20日に世子として指名された。明和3年([[1766年]])12月19日、従五位下、山城守に叙任する。[[天明]]2年([[1782年]])9月29日、父[[隠居]]したため、にともない[[家督]]を継いで藩主となり、その後、隠岐守に転任した(天明7年([[1787年]])7月1日とも、天明2年(1782年)10月1日ともいわれる)。
 
天明4年([[1784年]])5月15日、[[寺社奉行]][[奏者番]]に任じられた。しかし12月に[[江戸藩邸]]の失火により、天明5年([[1785年]])1月まで出仕を差し止められている。天明6年([[1786年]])に岳父の[[田沼意次]]が失脚すると、意次の縁者であったが、[[相良城]]の取り壊し務めている。
 
藩政においては、[[サツマイモ|甘藷]]の栽培、精糖法の研究など、産業開発による藩財政再建を目指した。また、自らが蘭学・絵画に造詣が深かったため、[[高森観好]]ら多くの文化人を招聘し、文化の発展に尽力している。
 
享和元年(1801年)3月27日、[[横須賀城]]にて死去した。享年56。男子は全て早世していたため、婿養子の[[西尾忠善|忠善]]が跡を継いだ。
 
 
{{横須賀藩主|西尾氏|4代|1782年 - 1801年}}
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{{DEFAULTSORT:にしお たたゆき}}
[[Category:西尾氏|たたゆき]]
[[category:譜代大名横須賀藩主]]
[[Category:1746年生]]
[[Category:1801年没]]