「古河城」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m →‎遺構:  一部の語句
m →‎中世: 一部の語句の修正、補足など
132行目:
[[古河公方]]時代を含む中世の構造はよく知られておらず、今後の調査・研究が期待されている。[[足利成氏]]時代の城域は、近世古河城の本丸付近と推定されている。『[[松陰私語]]』には、[[文明 (日本)|文明]]年間([[1469年]]~[[1487年]])に[[岩松尚純]]が古河に出仕したときの様子が記されており、古河公方御所に大きな「四足御門」があったこと、御所の周辺に宿所と呼ばれる家臣団の集落があったことなどが分かる。<ref name = nishigaya>[[西ヶ谷恭弘]] 「中世の古河城─古河御所と戦国期の古河城─」『古河市史研究』第11号、1986年</ref> なお、舟で往来可能な[[古河公方館]]と一体となり、あわせて広大な水城を形成していた<ref>鑓水柏翠(1986),158-159頁</ref>との見方も示されている。
 
伝承によれば、[[日光街道]]以前の奥州への古い街道が近世古河城内を川沿いに縦断していたとされる(『日光道中略記』)<ref name = tsushi254/>。『[[古河誌]]』によれば、観音寺曲輪・桜町曲輪に城下町にあたる宿場が展開していた<ref name = tsushi254/>。観音寺曲輪には[[小山氏|下野小山氏]]の一族が開いた「小山観音寺」があったが、[[慶長]] 7年([[1602年]])頃、城の拡張のため[[古河宿|城下]]に移転している<ref name >『古河市史通史編』197 頁(小山観音寺)</ref> <ref >『古河市史資料別巻』245頁(古河誌)</ref>。桜町曲輪には[[連歌師]]の[[猪苗代兼載]]が居を構え、その屋敷には多くの桜が植えられていたと伝わる<ref >『古河市史資料別巻』247頁(古河誌)</ref>。茂平河岸近くには[[雀神社 (古河市)|雀神社]]とその[[別当寺]]だった[[神宮寺 (古河市)|神宮寺]]<ref>『古河市史資料別巻』262-263頁(古河誌・雀宮)</ref>、三の丸には[[八幡神社 (古河市八幡町)|八幡宮]]<ref>『古河市史資料別巻』264-265頁(古河誌・八幡町八幡宮)</ref>、城の南端・立崎曲輪近辺には[[頼政神社|頼政祠]]<ref>『古河市史資料別巻』260-265頁(古河誌・頼政社)</ref>・[[徳星寺 (古河市)|徳星寺]]<ref>『古河市史資料別巻』272-275頁(古河誌・徳星寺)</ref>・[[妙光寺 (古河市)| 妙光寺]]<ref>『古河市史 民俗編』 834-835頁(妙光寺)</ref>・竜樹院<ref>『古河市史資料別巻』296頁(古河誌・竜樹院)</ref> があったが、城の拡張により、[[江戸時代]]には頼政祠を除く寺社が[[古河宿|城下]]へ移転した。
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期に関しては、最近、『[[池田家文庫]]』([[岡山大学]]附属図書館蔵)の「下総古河城図」<ref>[http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ikedake/ezu/metadata/486 岡山大学池田家文庫絵図公開データベースシステム・下総古河城図] 年代:[[貞享]]5年(1688年)7月</ref> の考察が行われている[[天正]]年間(1573-1592年)の[[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]・[[足利氏姫|氏姫]]期と推定されており、特に氏姫期である可能性が高い。この絵図によれば、本丸の位置や規模は近世古河城と同様だが、近世の桜門が「大手門」とされる。また近世の観音寺曲輪内には「大沢曲輪」・「観音寺曲輪」・「家来曲輪」とされる区画があり、桜町曲輪内には「大打(大内?)曲輪」、三の丸内には「放生(ほうじょう・北条?)曲輪」が見られる。本丸の南側には「山内曲輪」・「頼正(頼政)堂」と記された区画もある。[[後北条氏]]を始めとする関東諸士が城内に居住していたことを示唆するとともに、従来は伝承のみだった小山観音寺氏の屋敷や、頼政祠の存在を裏付けている。また、水堀が[[古河公方館]]の周囲にまで広がっており、当時は舟で往来できたという伝承も裏付けるものとなっている。<ref name = hayakawa>早川和見 『発見!古河公方時代の古河城絵図について(1)』「古河郷土史研究会 会報」 第51号、1-11頁、2013年</ref>
 
他の史料や伝承との整合性 <ref>本絵図では、奥州街道([[日光街道]])が近世同様に古河城の東側にあるが、他の伝承では古河城内を川沿いに縦断していたとされる。また、従来は、[[元和 (日本)|元和]]8年(1622年)に[[徳川秀忠]]の[[日光社参]]のために設置したとされる「御茶屋」が記載されている。[[元和 (日本)|元和]]5年(1619年)に入封した[[奥平忠昌]]が整備した出城・長谷曲輪(諏訪曲輪)が記載されているなど。他の史料や伝承については、『古河市史通史編』254 – 255 頁(古河城の構造)参照。</ref>、および、本絵図の成立過程 についても、さらなる考察が期待される。同様に、本絵図の年代・[[足利義氏 (古河公方)|足利義氏貞享]]5年は[[足利氏姫|氏姫天正]]期から約100年が経過しており、本絵図が成立した過程ついても、今後の調査が期待される。この時期の古河城は[[後北条氏]]による大幅な改修が加えられており<ref>『古河市史通史編』220 – 221 頁(古河城の整備)</ref> <ref name = nishigaya/>、初代[[古河公方]]・[[足利成氏]]以降とは異なる点も多いが、従来は伝承や断片的な史料から推測するだけだった近世以前の姿を示す貴重な史料である。
 
=== 近世(江戸時代) ===