「柳川一件」の版間の差分

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寛永12年([[1635年]])3月11日、三代将軍[[徳川家光|家光]]の目の前で、宗義成、柳川調興の直接の[[口頭弁論]]が行われた。江戸にいる大名が総登城し、[[江戸城]]大広間で対決の様子が公開された。結果、幕府としては従前同様に日朝貿易は対馬藩に委ねたほうが得策と判断し、宗義成は[[無罪]]、柳川調興は[[津軽地方|津軽]]に[[流罪]]とされた。また、[[以酊庵]]の庵主であった[[規伯玄方]]も国書改竄に関わったとして[[盛岡藩|南部]]に流された。
 
宗義成は対朝鮮外交における権限を回復させたものの、対朝鮮外交に不可欠であった漢文知識に精通しており、かつ朝鮮側との人脈を有していた柳川調興や規伯玄方が持っていたノウハウを失った事で、対朝鮮外交は完全に停滞してしまった。そのため、義成は幕府に援助を求めた。そこで、幕府は[[京都五山]]の[[僧]]の中から漢文に通じた優秀者([[五山碩学]])を[[朝鮮修文職]]に任じて対馬の以酊庵に輪番制によって派遣して外交文書作成や使節の応接、貿易の監視などを扱わせた。その結果、日朝貿易は以前と同じく対馬藩に委ねられたものの、幕府の厳しい管理下に置かれた。幕府は国書に記す将軍の[[外交称号]]を「[[日本国王]]」から「[[日本国大君]]」に改めることとなる。
 
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