「マウリヤ朝」の版間の差分

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こうして[[ガンジス川]]流域の支配を確立したチャンドラグプタは[[インダス川]]方面の制圧に乗り出した。インダス川流域はマウリヤ朝の成立より前に[[マケドニア王国|マケドニア]]の英雄[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]によって制圧されていたが、アレクサンドロスが[[紀元前4世紀|紀元前323年]]に死去すると彼の任命した総督([[サトラップ]])達の支配するところとなっていた。
 
[[ディアドコイ戦争]]中の[[紀元前4世紀|紀元前305年]]、[[ディアドコイ戦争]]の最中、アレクサンドロスの東方領土制圧を目指した[[セレウコス1世]]がインダス川流域にまで勢力を伸ばした。チャンドラグプタはその兵力を持ってセレウコス1世を圧倒して彼の侵入を排し({{仮リンク|セレウコス・マウリヤ戦争|en|Seleucid-Mauryan War|}})、セレウコス朝に4州の支配権を認めさせてインダス川流域から[[バクトリア]]南部にいたる地域に勢力を拡大した。これが直接的な戦闘の結果であるのかセレウコス1世が戦わずしてマウリヤ朝の領域を認めたのかについては諸説あり判然としない。
 
[[紀元前3世紀|紀元前293年]]頃チャンドラグプタが死ぬと、彼の息子[[ビンドゥサーラ]]が王となり更なる拡大を志向した。ビンドゥサーラの治世は記録が乏しい。彼は[[デカン高原]]方面へ勢力を拡大したとする記録があるが、実際には既に制圧済みだった領内各地で発生した反乱を鎮圧する一環だったとする説もある。ビンドゥサーラの息子に史上名高い[[アショーカ]]がいた。ビンドゥサーラはアショーカと不和であり、[[タキシラ|タクシラー]]で発生した反乱に際してアショーカに軍を与えずに鎮圧に向かわせたが、アショーカは現地の人心掌握に成功して反乱を収めたという伝説がある。