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==概要==
[[戦後]]日本におけるテレビ放送は、[[1950年]]11月からの定期試験放送期間を経て、[[1953年]][[2月1日]]に[[NHK放送センター|NHK東京]]で、次いで同年[[8月28日]]には[[日本テレビ放送網]]が本放送を開始したが、輸入品が多くを占めていた受像機は当時の会社員の年収数年分に相当する高額であり<ref>更に加えて、[[奢侈品]]であるとして20%の[[物品税]]が課せられていた。</ref>、一部の[[アマチュア無線|アマチュア無線家]]らが自作していた他は、庶民には高嶺の花でなかなか普及しなかった<ref>NHKの受信契約数は本放送開始時に866、日本テレビ開局時点でも約3000<]](NTV/ref>。テレビは[[コマーシャルメッセージ|テレビCM]])が本放送収入源と開始ており、視聴者が一定数確保できない事には、当然ながら[[スポンサー]]が獲得できないため、これは死活問題であった。
しかし、当時国内において流通していた受像機は、輸入品が多くを占め、当時の会社員の年収数年分に相当する高額商品でもあり<ref>高嶺の花であることに加え、1953年の時点では[[奢侈品]]であるとして、20%の[[物品税]]が課せられていた。</ref>、庶民にはなかなか普及せず、一部の[[アマチュア無線|アマチュア無線家]]らが、テレビキットを元に自作していた<ref>1953年当時のNHKの受信契約数は、本放送開始時に866件、日本テレビ開局時点でも約3000件だった。</ref>。
 
日テレは開局当時から[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]を収入源としており、[[スポンサー]]を獲得するには、視聴者を一定数確保する必要に迫られていた。
そのため、日本テレビを率いる[[正力松太郎]]は、普及促進とスポンサー獲得のため、キャラバン隊による移動宣伝の他、[[繁華街]]、主要[[鉄道駅]]、[[百貨店]]、[[公園]]など人の集まる場所に受像機を常設し、テレビの魅力を直接訴える作戦に打って出た<ref>百貨店のうち、[[丸井|OIOI]][[中野]]店では2階の床が抜けたというエピソードがある</ref>。それ以前、試験放送時代から既に街頭テレビは幾つも存在していたが、大々的な展開は日本テレビによるものであり、小さい画面にもかかわらず、特に人気番組の[[プロレス中継]]・[[ボクシング中継]]・[[大相撲中継]]には観衆が殺到した<ref>[[銭湯]]や飲食店などが客寄せの道具として設置する例も増えたが、一般に開放されたものではないので、街頭テレビの定義からは外れる。</ref>。都内各地に街頭テレビを据えた正力は、「台数は少なくても視聴者は多い」とアピールしてスポンサーを説得し、結果、開局7ヶ月で黒字化を達成した。
そのため、当時の日テレ社長[[正力松太郎]]は、普及促進とスポンサー獲得のため、キャラバン隊による移動宣伝の他、[[繁華街]]、主要[[鉄道駅]]、[[百貨店]]、[[公園]]など人の集まる場所に受像機を常設し、テレビの魅力を直接訴える作戦に打って出た<ref>百貨店のうち、[[丸井|OIOI]][[中野]]店では2階の床が抜けたというエピソードがある。</ref>。
そのため、日本テレビを率いる[[正力松太郎]]は、普及促進とスポンサー獲得のため、キャラバン隊による移動宣伝の他、[[繁華]]、主要[[鉄道駅]]、[[百貨店]]、[[公園]]など人の集まる場所に受像機を常設し、テレビ魅力を直接訴える作戦に打って出た<ref>百貨店うち、[[丸井|OIOI]][[中野]]店で2階の床が抜けたというエピソードがある</ref>。それ以前、試験放送時代から既に街頭テレビは幾つも存在していたが、大々的な展開は日テレビによるものが最初であり、小さい画面にもかかわらず、特に人気番組の[[プロレス中継]]・[[ボクシング中継]]・[[大相撲中継]]には観衆が殺到した<ref>[[銭湯]]や飲食店などが客寄せの道具として設置する例も増えたが、一般に開放されたものではないので、街頭テレビの定義からは外れる。</ref>。都内各地に街頭テレビを据えた正力は、「台数は少なくても視聴者は多い」とアピールしてスポンサーを説得し、結果、開局7ヶ月で黒字化を達成した。
 
その後、街頭テレビの大成功に触発され、それに続く形で、民間のテレビ放送局が次々と開局し、街頭テレビをさらに普及させた。放送局のみならず、受像機製造メーカーや販売店も競って街頭テレビを設置し、自社製品の優位性を訴えた。
 
間もなく白黒テレビは家庭へと普及していき、[[三種の神器 (電化製品)‎ |三種の神器]]の一つに数えられた。特に[[1958年]]の[[東京タワー]]竣工と[[ミッチー・ブーム|ミッチー(ご成婚)ブーム]]を境に急速に浸透した。そのため街頭テレビは、[[1960年]]より放送を開始した[[カラーテレビ]]の普及に目的を転じた。しかし[[1964年]]の[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]をきっかけとして、カラーテレビもまた各家庭に浸透していったため、次第に街頭テレビは目的を失い、衰退していった。
 
しかしながら公共の場へのテレビの設置自体は廃れることはなく、かつてほどの勢いはないがその後もメーカーが新製品の宣伝目的として設置するなど、街頭テレビに類する存在は現在もなお続いている。[[1980年代]]から2000年代初頭にかけて、[[ハイビジョン]]の普及目的で受像機が公共の場所に設置されたこともあった。
 
==註==