「斯波義銀」の版間の差分

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==逸話==
没落後も足利一門中の第一の家門の当主として知られており、天正年間に[[徳川家康]]が[[山名豊国|山名禅高(豊国)]]を供に義銀の屋敷を訪れた際、禅高の義銀への応対があまりにも慇懃過ぎるほどであったらしく、後に禅高は家康より「義銀は管領の家の生まれと言えども足利の分家に過ぎない。お前(禅高)は[[新田氏|新田家]]の嫡流にして、そう遠くない昔までは数ヶ国を治める太守であったではないか。何故、足利の分家に(新田のお前が)そのように卑屈になるのだ」と苦言を呈されている(家康も新田氏の分を自称していた)。
 
==子孫==