「セントヘレナ」の版間の差分

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=== ナポレオンとセントヘレナ ===
[[File:16 Napoleons exole St Helena June1970.jpg|thumb|250px|ロングウッド・ハウス]]
[[ナポレオン1世]]がエルバ島脱出ののち[[ワーテルローの戦い]]で敗れると、[[ウィーン会議]]により身柄の扱いはイギリスに一任された。イギリスはナポレオンの亡命受け入れを拒否し、保護を名目としてこの絶海の孤島に閉じ込めることにした。ナポレオンは1815年10月にセントヘレナに到着し、1821年5月に死亡するまで島中央の{{仮リンク|[[ロングウッド・ハウス|en|Longwood House}}]]に暮らした。しばしば「流刑」と称されるが、裁判や条約に基づかない不法拘留であった。イギリスはハドソン・ロー総督に監視させるにとどめ、館での生活はナポレオン一行の自由にさせていた。
 
ナポレオン幽閉の時代もこの島は東インド会社領のままであったが、イギリス政府の関与はより大きくなった。ナポレオン派を警戒して島には部隊が駐屯したほか、海軍の艦船が島の周辺を警戒した。また、隣の島である[[アセンション島]]や[[トリスタンダクーニャ|トリスタンダクーニャ島]]<ref>「隣」と言っても、アセンション島とは約1,300km、トリスタンダクーニャ島とは約2,430km離れている。</ref>にもイギリス軍が派遣された。