「村国男依」の版間の差分

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'''村国男依'''(むらくにのおより、生年不明 - 天武天皇5年([[676年]])7月)は、日本の[[飛鳥時代]]の人物である。名は'''雄依'''、'''小依'''とも書く。旧仮名遣いでの読みは、「むらくにのをより」。姓([[カバネ]])は[[連]]。[[672年]]の[[壬申の乱]]で大海人皇子([[天武天皇]])に属して戦い、近江方面の諸将の筆頭として連戦連勝し、最大の功を立てた。名は'''雄依'''、'''贈[[依'''とも書く紫]]
 
== 壬申の乱での活躍 ==
 
[[村国氏]]は[[美濃国]][[各務郡]]の豪族である。男依子に[[舎人村国志我麻呂]]として大海人皇子に仕えたと考えられている。
 
男依は[[舎人]]として大海人皇子に仕えたと考えられている。壬申の乱で大海人皇子が挙兵を決断したとき、男依は吉野にいた皇子のそばにいた。皇子自身か行動をおこす2日前、6月22日に、村国男依は[[和珥部君手]]、[[身毛広]]と三人で美濃国に先行するよう命じられた。彼らの任務は、安八磨郡([[安八郡]])の湯沐令[[多品治]]に連絡し、まずこの郡を挙兵させることであった。彼らは無事にその任を果たし、美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。男依は駅馬でとって返し、26日に[[伊勢国]][[朝明郡]]の[[郡家]]のそばで大海人皇子に成功を報じた。これにより[[近江京]]にいた[[大友皇子]]は東国との連絡を遮断され、東国の兵力は大海人皇子の手に帰すことになった。
 
不破関に入って美濃国と東国全般を勢力下におさめた大海人皇子は、7月2日に軍をそれぞれ数万の二手にわけ、一方を倭([[大和国]])に向かわせ、他方を[[近江国]]に投入した。男依は近江方面の軍の将となった。『[[日本書紀]]』は男依をこの軍の主将とは明言せず、総司令官の役目は[[高市皇子]]にあったと考える学者もいる。しかし、以後の記述で近江方面の軍をさすときに、書紀は「男依等」と記し、他の将を挙げない。男依を第一と位置づける評価の表れであろう。
 
男依は天武天皇5年([[676年]])7月に死んだ。壬申の際の功により、外[[小紫]]が贈られた。小紫は高位だが、[[外位]]である。地方出身で出自が低い者を中央の貴族と同列にするわけにはいかないが、彼等の功績は高く顕彰したいという考慮から、「外」という位が作られたと推測されている。
 
霊亀2年([[716年]])3月8日に、子の志我麻呂が父の功績によって田を与えられた。
 
[[Category:壬申の乱|むらくにのおより]]
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