「ラウラ・ビクーニャ」の版間の差分

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しかし、学校から帰郷したときにモーラから自分との結婚を迫られた。ラウラはそれを退けた。2人が険悪になったのが牧場で開かれた宴会のときであった。ラウラは泥酔したモーラから踊るように強要され、彼女は恐怖に感じそれを拒絶した。モーラは激怒しメルセデスにラウラの屋敷への出入り禁止を言い渡し学費支払いを停止した。そのことを知った学校側は彼女を特別給費生として受け入れ、ラウラは修道女らの手伝いと下級生の面倒を見た。ラウラは修道女になることを決意し扶助者聖母会への入会を志願した。しかし修道会は未成年であることと、母が愛人生活を送っているという理由で受理しなかった。ラウラは落胆したが以前、授業で宣教師が先住民に殺害された話を思い出し自分の命を引き換えとして母の改心を祈った。
 
その後、ラウラは結核に罹り、寄宿学校近くの小屋に住み母の看護を受けた。ラウラの容態は悪化し喀血と嘔吐を繰り返しラウラは母にモーラと別れるよう頼んだ。母は司祭を証人として立て娘の約束に応えた。1904年1月22日、12歳で死去した。遺骸は扶助者聖母会の墓地に埋葬され、メルセデスは執拗に復縁を迫るモーラと決別した。教会は彼女の英雄的徳を認め、1955年に列福調査を開始し、1986年、尊者にし、1988年9月3日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福された<ref>サレジオ家族の聖人略伝「福者ラウラ・ビクーニャ」よりより</ref>。
 
== 脚注 ==