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'''一色 直兼'''(いっしき なおかね、生年不明 - [[永享]]10年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]([[1438年]][[12111324日]]))は[[室町時代]]の[[武将]]。一色氏兼の子。[[官途名]]は[[宮内大輔]]。[[関東一色氏]]の[[嫡流]]で[[鎌倉公方]](関東公方)[[足利持氏]]の重臣。主君持氏が[[永享の乱]]を引き起こすと、持氏方の大将として幕府軍に抗戦したが敗れ、金沢([[横浜市]][[金沢区]])の[[称名寺 (横浜市)|称名寺]]で[[自害#歴史|自害]]した。直兼等関東一色氏のこの乱への加担は[[三河国|三河]][[守護職]][[一色氏]][[粛清]]の遠因となった。
 
== 事績 ==
一色氏嫡流の第3代[[一色直氏|直氏]]の嫡孫にあたり、また鎌倉公方足利家に仕えた関東一色氏の嫡統を嗣ぐ。直兼は足利持氏の御一家衆かつ重臣として仕え、軍事的にも関東(鎌倉)公方衆を束ねた。永享の乱では直兼は甥の[[一色時家]]と共に永享10年8月15日(9月4日)[[関東管領]][[上杉憲実]]討伐の下命を請けて[[上野国]][[平井城]]に向け出陣したが、[[駿河国|駿河]][[守護職]]の[[今川氏]]が幕府方として参戦したため持氏方は劣勢となる。直兼も自軍から憲実方へ寝返りが続出し、同9月4日(9月23日)には平井城を打って出た憲実勢の逆襲に追われて、海老名本陣の持氏とともに[[鎌倉#室町時代以降|鎌倉]]を目指し敗走。同11月1日(12(11718日)、持氏が上杉方[[長尾芳傳]]に相州葛原で投降すると<ref>既に10月4日に幕府方に寝返り鎌倉守備を放棄していた[[三浦時高]]がこの日鎌倉に討ち入り御所を攻め落としている。</ref>直兼等の持氏近臣は恭順のため[[相模国|相州]]金沢の[[称名寺]]に入ったが許されず、直兼等は幕府の差し向けた討伐軍に攻められて同年11月7日(1438年12111324日)自害した。(出典→「[[永享記]]」;『日本歴史文庫6』黒川真道編所収)
 
== 直兼自害後の一族 ==
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[[Category:室町・安土桃山時代の人物武士]]
[[Category:1438年没]]
[[Category:一色氏|なおかね]]