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'''八代城'''(やつしろじょう)は、[[熊本県]][[八代市]](旧 [[肥後国]][[八代郡]])にあった城である。
中世の'''古麓城'''、安土桃山時代の'''[[麦島城]]'''、江戸時代の'''松江城'''(現 八代城趾)と3つの時期に分かれる。このうち、古麓城は山城であり、麦島城と松江城は[[平城]]であった。
</ref>。
== 古麓城 ==
[[建武 (日本)|建武]]2年(1335年)、[[建武の新政]]の功臣[[名和長年]]の子・[[名和義高|義高]]は肥後国八代荘の[[地頭]]職を獲得し、地頭代として八代に下向した一族の[[内河義真]]
[[15世紀]]の後半には、八代進出を目指す[[球磨郡]]の[[相良氏]]と[[名和氏]]との抗争が繰り返されるが、[[文亀]]3年(1503年)に名和氏は北の[[木原城 (肥後国)|木原城]]に退き、以後相良氏が八代城を拠点として肥後南部の[[戦国大名]]に成長する。
名和氏・相良氏は、古麓の山岳地帯に山城を築いて拠点とし、麓に家臣団の屋敷や城下町が形成された。名和氏の時代には飯盛城・丸山城・鞍掛城・勝尾城・八丁嶽城があり、相良氏の時代に新たに鷹峰城・新城が築かれ城下町も広がる。八代は古麓の城下町、[[妙見宮]]の門前町、貿易港[[徳渕津]]を合わせた肥後最大の都市として繁栄した。▼
▲名和氏・相良氏は、古麓の山岳地帯に山城を築いて拠点とし、麓に家臣団の屋敷や城下町が形成された。名和氏の時代には飯盛城・丸山城・鞍掛城・勝尾城・八丁嶽城があり、相良氏の時代に新たに鷹峰城・新城が築かれ城下町も広がる。八代は古麓の城下町、[[八代神社|妙見宮]]の門前町、貿易港[[徳渕津]](とくぶちのつ)を合わせた肥後最大の都市として繁栄した。
[[天正]]9年(1581年)、北に勢力を伸ばした[[薩摩国|薩摩]]の[[島津氏]]が相良氏を降して八代を支配したが、天正15年(1587年)6月、[[豊臣秀吉]]の[[九州征伐]]の結果、[[佐々成政]]が古麓城など肥後国を領した。
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{{main|麦島城}}<!--麦島城跡発掘の記述に関しては麦島城にほぼ同じ文章の記事がありますのでこちらの記述を削除いたしました。-->
佐々成政は[[肥後国人一揆|肥後国衆一揆]]を引き起こした責により翌年改易され、[[球磨郡]]を除く肥後国は[[加藤清正]]と[[小西行長]]が半国ずつを領することになる。[[宇土城
[[慶長]]5年([[1600年]])、
== 松江城 ==
[[ファイル:八代城月見櫓跡石垣.jpg|thumb|right|月見櫓跡石垣の修復部分]]
麦島城の倒壊後、清正の子・[[加藤忠広]]は[[江戸幕府|幕府]]の許可を得て前川の北岸・松江の徳
[[寛永]]9年(1632年)、[[加藤氏]]が改易されると、[[豊前国|豊前]][[小倉藩]]主だった[[細川忠利]]が熊本藩主となり、忠利の父・[[細川忠興]](三斎)が八代城の北の丸を隠居所とした。忠興は四男の[[細川立孝|立孝]]を本丸に住まわせ、いずれ自分の隠居料9万5千石を継がせて立藩させることを望んでいたようだが、[[正保]]2年(1645年)閏5月に立孝は若くして没し、忠興も同年12月に没した。八代城には立孝の子・宮松([[細川行孝]])が残されたが、藩主[[細川光尚]]はこれに宇土郡・[[益城郡]]内から3万石を与えて宇土支藩とし、筆頭家老でかつ将軍直臣の身分も持つ[[松井興長]](長岡佐渡守)を八代3万石の城主とした。以後[[明治]]3年(1870年)の廃城まで代々松井氏が居城とした。
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建物以外にも、石垣の修復が数回行われており、[[熊本県立図書館]]や[[永青文庫]](熊本大学附属図書館寄託資料)に絵図が所蔵されている。現在でも、月見櫓跡石垣等で、修復の痕跡を見ることができる。
明治の廃城後、建物は大書院を除き取り壊される。大書院は学校として使用され、後に移築された。本丸は東側(表枡形門)と北側(裏枡形門)に虎口が開かれている。南側からの入口は、明治時代に本丸内に創建された[[八代宮]](征西将軍[[懐良親王]]・[[良成親王]]を祀る)の
== 現存建物 ==
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