「八代城」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Si-take. (会話 | 投稿記録)
参照方法テンプレ貼付。「参考文献」については当記事の出典か否か不明のため、セクション名変更 (出典に使用しているもののみ、空白の「参考文献」節に転記ください)。
編集の要約なし
20行目:
'''八代城'''(やつしろじょう)は、[[熊本県]][[八代市]](旧 [[肥後国]][[八代郡]])にあった城である。
 
中世の'''古麓城'''、安土桃山時代の'''[[麦島城]]'''、江戸時代の'''松江城'''(現 八代城趾)と3つの時期に分かれる。このうち、古麓城は山城であり、麦島城と松江城は[[平城]]であった。現在2013年11月15日、国の[[文化審議会]]は、江戸期これらの城跡を一括した「八代城跡群(しろあとぐん)」を[[国史跡]]指定するよう[[八代宮文部科学大臣]]があに答申した<ref>答申には、麦島城の瓦を製造していた平山瓦窯跡も含まれる。
</ref>。
 
== 古麓城 ==
[[建武 (日本)|建武]]2年(1335年)、[[建武の新政]]の功臣[[名和長年]]の子・[[名和義高|義高]]は肥後国八代荘の[[地頭]]職を獲得し、地頭代として八代に下向した一族の[[内河義真]]を地頭代とした。義真は八代に下向して八代城(古麓城)を築いた。[[正平 (日本)|正平]]13年([[延文]]3年、1358年)、[[南朝 (日本)|南朝]]方の形勢不利により長年の孫・[[名和顕興|顕興]]が八代に下向する。[[永徳]]元年(1381年)、[[九州探題]][[今川貞世|今川了俊]]が九州の南朝勢力の中心・[[菊池氏]]の本拠地[[隈府城]]を陥れると、後征西将軍宮[[良成親王]]・[[菊池武朝]]らは[[名和顕興]]を頼り、八代が九州の南朝方の最後の拠点となった。しかし[[元中]]8年([[明徳]]2年、1391年)には八代城も陥され、顕興は幕府方に降る。[[15世紀]]の後半には、八代への進出を目指す[[人吉城]]主[[相良氏]]と[[名和氏]]との抗争が繰り返されるが、[[文亀]]3年(1503年)に名和氏は北の[[木原城 (肥後国)|木原城]]に退き、以後相良氏が八代城を拠点として肥後南部の[[戦国大名]]に成長する。
 
[[15世紀]]の後半には、八代進出を目指す[[球磨郡]]の[[相良氏]]と[[名和氏]]との抗争が繰り返されるが、[[文亀]]3年(1503年)に名和氏は北の[[木原城 (肥後国)|木原城]]に退き、以後相良氏が八代城を拠点として肥後南部の[[戦国大名]]に成長する。
名和氏・相良氏は、古麓の山岳地帯に山城を築いて拠点とし、麓に家臣団の屋敷や城下町が形成された。名和氏の時代には飯盛城・丸山城・鞍掛城・勝尾城・八丁嶽城があり、相良氏の時代に新たに鷹峰城・新城が築かれ城下町も広がる。八代は古麓の城下町、[[妙見宮]]の門前町、貿易港[[徳渕津]]を合わせた肥後最大の都市として繁栄した。
 
名和氏・相良氏は、古麓の山岳地帯に山城を築いて拠点とし、麓に家臣団の屋敷や城下町が形成された。名和氏の時代には飯盛城・丸山城・鞍掛城・勝尾城・八丁嶽城があり、相良氏の時代に新たに鷹峰城・新城が築かれ城下町も広がる。八代は古麓の城下町、[[八代神社|妙見宮]]の門前町、貿易港[[徳渕津]](とくぶちのつ)を合わせた肥後最大の都市として繁栄した。
 
[[天正]]9年(1581年)、北に勢力を伸ばした[[薩摩国|薩摩]]の[[島津氏]]が相良氏を降して八代を支配したが、天正15年(1587年)6月、[[豊臣秀吉]]の[[九州征伐]]の結果、[[佐々成政]]が古麓城など肥後国を領した。
33 ⟶ 36行目:
{{main|麦島城}}<!--麦島城跡発掘の記述に関しては麦島城にほぼ同じ文章の記事がありますのでこちらの記述を削除いたしました。-->
 
佐々成政は[[肥後国人一揆|肥後国衆一揆]]を引き起こした責により翌年改易され、[[球磨郡]]を除く肥後国は[[加藤清正]]と[[小西行長]]が半国ずつを領することになる。[[宇土城主となり肥後国南半24万石の領]]主となった小西行長は古麓城を廃城と、家臣の[[小西末郷]]に命じて[[球磨川]]の北岸に新しい八代総石垣造りの麦島城を築城させた。この城が現在麦島城跡と呼ばれている城である。なお、当時まだ前川の開削が行われておらず、麦島城の北側大きな入江となっており(後に開削された[[前川]]によって世以来の貿易港であり洲となる)、豊臣秀吉の直轄港であ地となった貿易港[[淵の]]設けられあって、海上交通の要所であった。天正20年([[1592年]])6月、文禄の役の間隙を縫って[[梅北一揆]]が麦島城攻めるも、麦島城の高石垣と織豊系城郭の防御能力に阻まれ寄せたが敗退、[[佐敷城_(肥後国)|佐敷城]]に逃れた。
 
[[慶長]]5年([[1600年]])、小西行長[[関ヶ原の戦い]]に敗れて斬首され、肥後国北半の領主だ小西家は改易となった[[加藤清正]]が肥後一国(球磨郡]]・[[天草郡]]を除く肥後52万石を与えられると、家臣のた[[熊本城]]主[[加藤]]は、重臣[[麦島城加藤正方]]を城代となっして麦島城に入れた。[[元和 (日本)|元和]]の[[一国一城令]]が出されるとによって[[熊本藩]]では[[南関城]]・[[内牧城]]・[[佐敷城]]などが取り壊されたがても、麦島城は例外的に存続が認められてい。しかし、元和5年(1619年)大地震のために倒壊し廃城となった。
 
== 松江城 ==
[[ファイル:八代城月見櫓跡石垣.jpg|thumb|right|月見櫓跡石垣の修復部分]]
麦島城の倒壊後、清正の子・[[加藤忠広]]は[[江戸幕府|幕府]]の許可を得て前川の北岸・松江の徳の近くに新たに城を築いた。城は元和8年(1622年)に竣工。麦島城時代に認められた一国二城体制は継続された。<!--したがって、麦島城時代に一国二城体制が認められていなければ、現在の八代城跡は存在しなかった可能性がある。(後記備考と重複)-->
 
[[寛永]]9年(1632年)、[[加藤氏]]が改易されると、[[豊前国|豊前]][[小倉藩]]主だった[[細川忠利]]が熊本藩主となり、忠利の父・[[細川忠興]](三斎)が八代城の北の丸を隠居所とした。忠興は四男の[[細川立孝|立孝]]を本丸に住まわせ、いずれ自分の隠居料9万5千石を継がせて立藩させることを望んでいたようだが、[[正保]]2年(1645年)閏5月に立孝は若くして没し、忠興も同年12月に没した。八代城には立孝の子・宮松([[細川行孝]])が残されたが、藩主[[細川光尚]]はこれに宇土郡・[[益城郡]]内から3万石を与えて宇土支藩とし、筆頭家老でかつ将軍直臣の身分も持つ[[松井興長]](長岡佐渡守)を八代3万石の城主とした。以後[[明治]]3年(1870年)の廃城まで代々松井氏が居城とした。
47 ⟶ 50行目:
建物以外にも、石垣の修復が数回行われており、[[熊本県立図書館]]や[[永青文庫]](熊本大学附属図書館寄託資料)に絵図が所蔵されている。現在でも、月見櫓跡石垣等で、修復の痕跡を見ることができる。
 
明治の廃城後、建物は大書院を除き取り壊される。大書院は学校として使用され、後に移築された。本丸は東側(表枡形門)と北側(裏枡形門)に虎口が開かれている。南側からの入口は、明治時代に本丸内に創建された[[八代宮]]征西将軍[[懐良親王]]・[[良成親王]]を祀る)の入口参道として月見櫓と舞台脇櫓の間の石垣を取り壊して造られたものである。[[昭和]]10年(1935年)頃には区画整理のため、二の丸・三の丸・出丸の石垣を取り壊し、これを取り囲む外堀も埋め立てられた。昭和61年(1986年)2月、移築保存中の大書院が焼失した。
 
== 現存建物 ==