「長尾憲景」の版間の差分

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== 生涯 ==
実父は、総社[[長尾顕忠]]あきただ)またはその庶流の高津[[長尾顕景]]子で、いずれかとされる。白井[[長尾景誠]]の養子となり、景誠の横死後に[[長野業正]]の斡旋で当主となる。初め'''景房'''(かげふさ、兄弟とされる[[長尾景房#長尾景房(戦国時代、総社長尾氏)|景房]]と同名)を称していたが、主君で[[関東管領]]の[[上杉憲政]]より[[偏諱]](「憲」の1字)を受けて'''憲景'''と改名した。[[永禄]]10年([[1567年]])、[[甲斐国|甲斐]]の[[武田信玄]]の上野侵攻で白井の所領を失い、[[越後国|越後]]の[[上杉謙信]](同じく[[長尾氏]]の出身者で憲政の養子)の許へ逃れた。その後は謙信に従って各地を転戦したが、[[元亀]]3年([[1572年]])、[[真田幸隆]]に白井城を攻められて[[八崎城]]に逃れた。
 
この際次男(嫡男)[[長尾輝景|輝景]]に家督を譲った<ref>長男の[[長尾憲春|憲春]](のりはる)は([[庶長子]]のためか)嫡子にはならなかったものの、後北条氏に仕えるまで存命している。</ref>。翌年には[[越相同盟]]が結ばれ、上野への諸将の影響力が薄まったために白井城に戻る。謙信死後は[[御館の乱]]で[[上杉景虎]]に与したためて敗れ、乱後は上杉氏を離れて[[武田勝頼]]、[[滝川一益]]、[[後北条氏]]に仕えた。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
{{長尾宗家歴代当主|白井長尾家|1528年 - 1572年|第8代}}