「鶴林寺 (加古川市)」の版間の差分
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山号 = 刀田山(とたさん)|
宗派 = [[天台宗]]|
本尊 = [[薬師如来
創建年 =伝・[[崇峻天皇]]2年([[589年]])|
開基 =伝・[[聖徳太子]]|
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== 概要 ==
近畿地方に数多くある[[聖徳太子]]開基伝承をもつ寺院の1つで、太子建立七大寺の一つとも
境内および塔頭の周囲三方が[[鶴林寺公園]]として整備され[[国鉄C11形蒸気機関車|C11形蒸気機関車]]なども展示され休日には親子連れの遊び場になっている。
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伝承では創建は[[崇峻天皇]]2年([[589年]])にさかのぼり、聖徳太子が当時播磨の地にいた[[高麗]]僧・恵便(えべん)のために建立、その後養老2年([[718年]])身人部春則(むとべのはるのり/みとべのはるのり)なる人物が七堂伽藍を整備したというが、伝承の域を出ない。ただし、[[推古天皇]]14年([[606年]])、聖徳太子が[[法華経]]を講義し、その功で天皇から[[播磨国]]の水田百町を得たことは史実とされ、聖徳太子と播磨には何らかの関連があったと想像される。創建時は四天王寺聖霊院という寺号であったものを、天永3年([[1112年]])に[[鳥羽天皇]]によって勅願所に定められたのを期に「鶴林寺」と改めたという。
鶴林寺には、現に[[
現在も主要な堂塔だけで16棟の大伽藍を有するが、鎌倉・室町期には寺坊だけで30以上を有する規模であった。
==文化財==
[[File:Kakurinji05s2048.jpg|thumb|right|240px|本堂細部 扉は桟唐戸。組物は肘木を前方に2段持ち出した「二手先」とし、組物間に置く中備(なかぞなえ)は蟇股(かえるまた)と双斗(ふたつと)を組み合わせたものである。]]
=== 国宝 ===
*本堂(附:宮殿棟札2枚)
:室町時代。入母屋造、本瓦葺き。桁行(正面)7間、梁間(側面)6間(「間」は長さの単位ではなく柱間の数を意味する)。堂内の宮殿(くうでん、厨子)の棟札(むなふだ)銘から応永4年(1397年)の建築とわかる。和様に禅宗様を加味した折衷様建築の代表作で、桟唐戸(縦横に桟を組んだ扉)を多用する点が特色である。内部の
*太子堂
:平安時代。本堂の手前右方に建つ。堂内に壁画の聖徳太子像があることから太子堂と呼ばれているが、元来は「法華堂」と称された堂で、本堂手前左方に建つ常行堂と対をなしている(「法華堂」「常行堂」という同形の堂を並べて建てるのは天台宗特有の伽藍配置で、[[延暦寺]]、日光の[[輪王寺]]などに例がある)。屋根は宝形造(四角錐形の屋根)、檜皮葺き。桁行(正面)、梁間(側面)とも3間の主屋の前面に梁間1間の孫庇(礼堂)を付した形式になり、側面から見ると、主屋と孫庇の境で軒先の線が折れ曲がる「縋破風」(すがるはふ)の形になる。屋根板の鎌倉時代の墨書から天永3年(1112年)の建築と分かる。堂内に
▲[[ファイル:Kakogawa Kakurinji8027.JPG|thumb|none|240px|太子堂]]
:建築とともに、堂内の壁画も平安時代絵画の稀少な遺品として重要である。東側壁面に描かれた聖徳太子像は、中世から厨子で覆われ、秘仏扱いとされている(1977年に重要文化財に指定されたが、写真は公開されていない)<ref>毎日新聞社編『重要文化財』、同社編『国宝・重要文化財大全』にはこの聖徳太子像の写真が掲載されていない。『鶴林寺太子堂とその美』(鶴林寺叢書)には写真が掲載された。</ref>。来迎壁(本尊背後の壁)の表裏には九品来迎図と仏涅槃図が描かれているが、黒ずんでいて肉眼では図柄を確認できず、赤外線写真で全貌が確認された。
▲:平安時代。本堂の手前右方に建つ。堂内に壁画の聖徳太子像があることから太子堂と呼ばれているが、元来は「法華堂」と称された堂で、本堂手前左方に建つ常行堂と対をなしている(「法華堂」「常行堂」という同形の堂を並べて建てるのは天台宗特有の伽藍配置で、[[延暦寺]]、日光の[[輪王寺]]などに例がある)。屋根は宝形造(四角錐形の屋根)、檜皮葺き。屋根板の鎌倉時代の墨書から天永3年(1112年)の建築と分かる。堂内に安置されていた本尊釈迦三尊像(重文)は宝物館に移されている。建築とともに、堂内の壁画も平安時代絵画の稀少な遺品として重要である。東側壁面に描かれた聖徳太子像は、中世から厨子で覆われ、秘仏扱いとされている(1977年に重要文化財に指定されたが、写真は公開されていない)。来迎壁(本尊背後の壁)の表裏には九品来迎図と仏涅槃図が描かれているが、黒ずんでいて肉眼では図柄を確認できず、赤外線写真で全貌が確認された。
=== 重要文化財 ===
;建造物
*常行堂
*鐘楼
*行者堂
*護摩堂
<gallery>
ファイル:Kakurinji14s2040.jpg|常行堂
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;絵画
[[File:Amitabha Triad (Kakurinji Kakogawa).jpg|thumb|right|140px|阿弥陀三尊像(高麗)]]
*絹本著色聖徳太子像― 鎌倉時代▼
*絹本著色
*絹本著色
:この[[高麗仏画]]は、2002年に宝物館から盗難に遭い、2004年に[[大韓民国|韓国]][[大邱広域市|大邱広域市内]]の寺院で発見されたが、盗品と知らずに寄進を受けたものであったため、返還は困難と言われている<ref>[http://japanese.joins.com/article/592/57592.html 韓日が高麗仏画で所有争い] [[中央日報]]日本語版 2004年11月10日</ref><ref>[[菅野朋子]] 【特別リポート】消えた「重要文化財を追え!」壱岐・安国寺の寺宝は「韓国の国宝」になっていた! [[週刊新潮]] 2005年10月13日号</ref>。[[朝鮮王室儀軌]]の引き渡しに関連して、2011年4月に日本外務省は[[大韓民国外交通商部|韓国外交通商部]]に対し、1994年に長崎県の安国寺から盗まれた「[[高麗版大般若経 (安国寺)]]」と、2002年に鶴林寺から盗まれた「阿弥陀三尊像」について、韓国内流入の事実確認や詳しい経緯の再調査を要請した<ref>{{cite news |title=盗難文化財の再調査を韓国に要請 外務省 |newspaper=朝日新聞 |date=2011-05-09 |url=http://www.asahi.com/culture/update/0509/TKY201105090365.html |accessdate=2011-07-15|archiveurl=http://web.archive.org/20110511233327/www.asahi.com/culture/update/0509/TKY201105090365.html|archivedate=2011-05-11|deadlinkdate=2013-11-01}}</ref>。
*絹本著色聖徳太子絵伝
:2002年に[[韓国人]]犯行グループによって盗難に遭い、その翌年には取り戻されたが、損傷していたため、5年の歳月と5000万円を掛けて修復が行われた<ref>{{cite news |title=聖徳太子、よみがえった! 盗難仏画の修復が完成 |newspaper=産経新聞 |date=2008-03-19 |url=http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080319/trd0803192357017-n1.htm }}</ref>。
*太子堂壁画
**板絵著色聖徳太子像
**附
**附
;彫刻
*銅造聖観音立像
:1963年に盗難に遭い、後に発見されたが、天衣(てんね)の一部が切断されるなどの損害があった。その後、原状どおりに修復されている。
*木造釈迦三尊像
*木造十一面観音立像
*木造天蓋
*木造薬師三尊像及び二天(持国天、多聞天)像
;工芸
*だ太鼓縁<ref>「だ」の漢字は「口」を横に2つ並べ、その下に「田」「一」「黽」。</ref> - 室町時代
*木造鶴林寺扁額
*銅鐘([[梵鐘]]
*木造
=== その他の建築物、文化財ほか ===
*[[三重塔]]
*大門
*観音堂
*新薬師堂
*講堂
*西門
*東門
*宝物館 - 2012年に太子堂創建900年を記念して新宝物館が開館した。
<gallery>
ファイル:Kakogawa Kakurinji04n4592.jpg|三重塔
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ファイル:Kakogawa Kakurinji44n4592.jpg|西門
ファイル:Kakogawa Kakurinji39n4592.jpg|東門
</gallery>
*石造[[宝篋印塔]]
*木造阿弥陀如来坐像
*木造僧形坐像(伝恵便法師像
*如意輪観音半跏思惟像
*木造獅子頭
*懸仏
*机
*石風呂
<gallery>
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==年中行事==
*1月1日
*1月8日
*2月15日
*3月21日
*3月22日
*3月23日
*5月8日
*7月下旬
*8月7日
*9月
*十三夜
*12月31日
'''
*毎月8日
*毎月18日
==所在地・見学情報==
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