「ゲオルク・フィリップ・テレマン」の版間の差分

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テレマンは、裕福な[[ブルジョワジー|市民]]層を相手に作品の予約販売という方法で成功を収めたほか、隔週の市民向け音楽[[雑誌]] 「[[忠実な楽長]] ''Der getreue Musikmeister'' 」 を刊行、毎号、新作楽譜を掲載し、必ず続きは次の号に載せることで継続して買ってもらうという、新手の商法を生み出した商売上手であった。彼の作る曲は常に当時のヨーロッパ社会の流行の先端を行く作風であり、また複雑で難解とされるバッハなどの曲と違って[[アマチュア]]にも演奏しやすかったため、当時の貴族や富裕層の人々からは大いに親しまれていた。
 
しかし、音楽の世界での成功とは裏腹に、彼の結婚は失敗続きであった。彼は最初の妻と1人の娘をもうけて15ヶ月で死別した後、1714年にマリア・カテリーナと再婚し、合計9人の子ども(誰も音楽家にならなかった)を授かったが、この2番目の妻マリアはスウェーデンの将校と関係を持っているとの噂だったため、結婚は1720年代前半までにすでに問題を抱えていた。マリアは[[ギャンブル]]に熱中してテレマンの年収を超える4400ライヒス[[ターラー_( (通貨)|ターラー]]にも上る莫大な負債をこしらえた<ref>自叙伝によれば、ハンブルク市歌劇場からの年俸が300ライヒスターラー、アイゼナッハの不在楽長職の年俸が100ライヒスターラー、バイロイト宮廷楽長の年俸が100ライヒスターラーであったと書いている。ハンブルク市音楽監督の年俸は不明。合わせても8年分以上の年俸に当たる。服部幸三、p.244-5。</ref> が、ハンブルクの商人達の助けで、彼は破産から救われた。1736年までにマリアはテレマンの家を出た。彼女は夫より約8年長生きして、フランクフルトの修道院で1775年に亡くなった。
 
長男アンドレアスが[[1755年]]に死んだあと、テレマンはアンドレアスの息子[[ゲオルク・ミヒャエル・テレマン]]([[:de:Georg Michael Telemann]]、1748年4月20日-1831年3月4日)を引き取り、後にゲオルク・ミヒャエルは音楽家および神学者として著名になった。晩年、テレマンの視力は悪化し始め、1762年ごろまでにかなり健康が悪化したが、創作意欲には何ら支障はなく、[[1767年]]6月25日の夕方に呼吸器疾患による衰弱のため86歳で死去するまで作曲を続けていた。