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{{main|クメール・ルージュ}}
 
[[プノンペン]]の中心からやや南方に位置するこの場所[[:en:Chamkarmon District]]({{lang-km|ខណ្ឌចំការមន}}、{{lang-en|Chamkarmon District}})には、トゥール・スヴァイ・プレイという[[リセ]]があった。革命に学問は不要と言う方針を打ち出したクメール・ルージュは、[[1976年]]4月頃、無人になったプノンペンの中心に位置するこの学校を、反革命分子、を尋問しその係累を暴くための施設に転用した。
 
それ以前にもプノンペン市内にはいくつかの政治犯収容所があった模様で、そこでは厳しい尋問が行われていたようだが、生きては出られぬ収容所ではなかったと言う。収容所がS21に集約されると共に、一度収容されたものは生きて出ることはない場へと変貌したが、そのどちらが原因でどちらが結果かは今となっては不明である。また、[[1976年]]の[[毛沢東]]の死によってクメール・ルージュ党中央は中国からの援助が止まるのではないかと危機感を募らせ、それと共に反革命分子の詮索も苛烈の度を増していった。
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