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{{基礎情報 過去の国
|略名 =
|日本語国名 = シク
|公式国名 =
|建国時期 = [[
|亡国時期 = [[
|先代1 = ドゥッラーニー朝
|先旗1 =Flag_of_the_Durrani_Empire.svg
|先代2 = マラーター同盟
|先旗2 = Flag of the Maratha Empire.svg
|先代3 = :en:Misl
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|公用語 = [[ペルシア語]]
|首都 = [[ラホール]]
|元首等肩書 = [[マハーラージャ]]
|元首等年代始1 = [[1801年]]
|元首等年代終1 = [[1839年]]
|元首等氏名1 = {{仮リンク
|元首等年代始2 =
|元首等年代終2 =
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|注記 =
}}
'''シク
==
{{Seealso|[[シク教#歴史]]}}
===前史===
==== シク教徒の政治組織・軍事組織化 ====
[[グル・ナーナク]]を開祖とするシク教は元来は平和的な宗教であったが、{{要出典範囲|date=2011年7月|[[イスラム教]]など他宗教の宗教的圧力と[[イギリス]]など西欧列強の圧迫、[[ムガル帝国]]の政治的圧力とインド人の勇猛な性格など諸因が重なって宗教団体が次第に政治組織・軍事組織化されていって最終的に国家に変貌したのである}}。指導者はグル(=師匠)といわれた。
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第9グルの{{仮リンク|グル・テーグ・バハードゥル|en|Guru Tegh Bahadur}}はインド全土や国外にもシク教を布教活動をしようとしてムガル皇帝の[[アウラングゼーブ]]と対立し、[[1675年]]に[[デリー]]で逮捕処刑された。その跡を継いだ息子の[[グル・ゴービンド・シング]]は{{要出典範囲|date=2011年7月|復讐を唱えて}}ムガル帝国と本格的に軍事衝突した。その一方で嬰児殺害や巡礼参拝など{{要出典範囲|date=2011年7月|当時の悪習}}を廃止して禁酒・禁煙制を定めるなど組織の強化を図った。グル・ゴーヴィンド・シンは[[1708年]]に死去した。彼の息子はムガル帝国との戦役で死んでいたため、遺言によりこの後は聖典がグルとされることになった。
=== シク王国
[[File:RanjitSingh by ManuSaluja.jpg|thumb|right|250px|シク
ムガル帝国はアウラングゼーブの時代に最大版図を形成したが、その晩年に帝国は分裂の傾向が強まっ
アウラングゼーブの死後には短命な皇帝と内紛が相次いで帝国は急速に衰退。一方のシク教は[[18世紀]]半ばになると全盛期を迎え、[[1764年]]には遂に[[ラホール]]を中心にしてムガル帝国から独立した。[[1768年]]にはアムリットサルに国民会議を創設し、さらに貨幣を鋳造するなどして国家の体裁を整えた。
だが18世紀末になると内紛を起こして衰退した。だが英雄{{仮リンク|ランジット・シン|en|Ranjit Singh|label=ランジート・シン}}が現われてシク教国は彼のもとで再統一され、再び全盛期を迎えた。▼
▲だが18世紀末になると内紛を起こして衰退した。だが英雄{{仮リンク|ランジ
=== 2度のシク戦争と滅亡 ===
{{main|{{仮リンク|アングロ・シク戦争|en|Anglo-Sikh wars|label=シク戦争}}}}
{{未検証|date=2011年7月|section=1}}
[[File:Duleep Singh00.jpg|thumb|left|250px|ドゥリープ・シング]]
[[File:Bataille de Sobraon.jpg|thumb|{{仮リンク|第1次シク戦争|en|First Anglo-Sikh War|label=第一次シク戦争}}の帰趨を決した{{仮リンク|ソブラーオンの戦い|en|Battle of Sobraon}}]]▼
[[1839年]]にランジート・シンが死去すると
この頃、ムガル帝国の衰退に乗じて[[イギリス]]がインドにおいて勢力を拡大していた。そのイギリスにとって{{要出典範囲|date=2011年7月|精強な洋式軍隊を抱えていたシク教国は脅威であり、強力な指導者を失って内乱を起こしていたのを好機とばかりに}}[[1845年]]から侵攻を開始した({{仮リンク|第1次シク戦争|en|First Anglo-Sikh War|label=第一次シク戦争}})。
▲[[File:Bataille de Sobraon.jpg|thumb|{{仮リンク|第1次シク戦争|en|First Anglo-Sikh War|label=第
シク王国ではさすがに{{要出典範囲|date=2011年7月|内紛をひとまず収束させてイギリスと戦ったが内紛の傷跡は深刻で連携がとれず}}、また強力な指導者を欠いていたために[[1846年]]の{{仮リンク|ソブラーオンの戦い|en|Battle of Sobraon}}でイギリス軍に敗れると{{仮リンク|ラホール条約|en|Treaty of Lahore}}を締結して講和(降伏)することを余儀なくされた。この条約でシク教国は[[カシミール]]地方をイギリスに譲渡し、またイギリスの駐在官を受け入れその施政を受けることを余儀なくされた。
==脚注==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 『アジア歴史事典』([[平凡社]]. [[1959年]])
* [[フランシス・ロビンソン]]『ムガル帝国歴代誌』([[小名康之]]監修, [[創元社]], 2009年5月)
==関連項目==
*[[シク教]]
{{Commonscat|Sikh Empire}}
{{インドの王朝}}
{{DEFAULTSORT:しく
[[Category:シク教]]
▲[[Category:インドの宗教]]
[[Category:パンジャーブ]]
[[Category:インドの歴史]]
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