「小野川喜三郎」の版間の差分

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|優勝 = 優勝相当成績7回
|賞 =
|初土俵 = 1776年
|新十両 =
|入幕 =
|引退 = 1797年
|引退後 =
|他の活動 =
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}}
 
'''小野川 喜三郎'''(おのがわ きさぶろう、[[1758年]]([[宝暦]]8年)<ref>[[1761年]](宝暦11年)生まれとも([http://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B7%9D%E5%96%9C%E4%B8%89%E9%83%8E kotobank])。</ref> - [[1806年]][[4月30日]]([[文化 (元号)|文化]]3年[[3月12日 (旧暦)|3月12日]]))は、[[近江国]]京町(現:滋賀県大津市)出身の元[[大相撲]][[力士]]。本名は'''川村 喜三郎'''(かわむら きさぶろう)。
 
== 来歴 ==
初代・[[小野川 (年寄名跡)|小野川]]の養子となって、[[1776年]]([[安永]]5年)に[[大坂相撲]]で初土俵を踏み、のち[[1779年]](安永8年)に江戸相撲に合流、[[久留米藩]]の抱えとなった。[[1782年]]3([[天明]]2年)3月場所7日目には、当時大関だった[[谷風梶之助 (2代)|谷風梶之助]]の63連勝を止める殊勲の星を上げた。これ以降、谷風梶之助と小野川喜三郎の取組は、相撲史上に残る名勝負として現在まで語り継がれている。その功績が認められた形で、[[1789年]]([[寛政]]元年)に[[吉田司家]]から谷風梶之助とともに横綱免許を授与された(事実上、現在に至る横綱制度の始まり)。[[1791年]](寛政3年)[[6月11日 (旧暦)|6月11日]]には[[徳川家斉]]の上覧相撲が行われ、徳川家斉のリクエストによって谷風梶之助との対戦が組まれた。両者は変わらない熱戦を繰り広げて徳川家斉を喜ばせるなど、寛政の相撲繁栄期を築いた。[[1797年]](寛政9年)に引退
 
小野川が1806年(文化3年)に亡くなってから、1828年([[文政]]11年)に阿武松が横綱免許を授与されるまでの約22年間、'''横綱経験者が全て存命していない状態'''になっていた(2012(2013年現在まで唯一)。
 
2013年1月現在、「[[小野川 (年寄名跡)|小野川]]」という名前は[[日本相撲協会]]が所有する[[年寄名跡]]の一つに数えられ、[[武州山隆士]]が襲名している。所有者は日本相撲協会理事長である[[北の湖敏満]]。
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* 幕内通算成績:144勝13敗4分10預3無40休 勝率.917(23場所)
* 優勝相当成績:7回
 
== 脚注 ==
<references/>
 
== 関連項目 ==