「ジョージ・ウォレス」の版間の差分

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== 人物 ==
アラバマ州出身。[[アラバマ大学]]を卒業し[[1962年]]に[[民主党 (アメリカ)|民主党]]からアラバマ州知事に当選した。このときジョージウォレスが掲げた[[スローガン]]は「今ここで人種隔離を!明日も人種隔離を!永遠に人種隔離を!」(''I say segregation now, segregation tomorrow, segregation forever'')という[[人種差別]]主義的なものであった。
 
[[1964年]]、民主党の大統領候補者の指名争いに参戦したが敗退。[[1968年]]、当時の前アラバマ州知事だったジョージウォレスは[[ジョン・F・ケネディ]]、[[リンドン・ジョンソン]]の2代にわたる民主党政権が推進してきた人種隔離廃止政策に反対し、[[公民権運動]]に不快感を持つ[[アメリカ合衆国南部|南部]]の[[白人]]層の代表として[[アメリカ独立党]]から大統領選挙に出馬した。この党は[[1948年アメリカ合衆国大統領選挙]]に[[ストロム・サーモンド]]を擁立した[[州権民主党]]の流れをくむもので、人種隔離政策の継続と公民権問題に関する[[アメリカ合衆国政府|連邦政府]]の介入排除を訴えていた。なお、サーモンドはこの時には既に転向しており、ジョージウォレスに批判的な態度を取っていた。
 
[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]候補には[[第二次世界大戦]]で[[日本本土空襲|日本本土無差別爆撃]]を指導した元[[アメリカ空軍|空軍]][[参謀総長]]の[[カーチス・ルメイ]]が据えられ、[[ベトナム戦争]]での強硬政策を主張した。選挙の結果、アラバマ州、[[アーカンソー州]]、[[ジョージア州]]、[[ミシシッピ州]]、[[ルイジアナ州]]でトップを取り46人の選挙人を獲得した。なお、得票数の上では2位になった民主党候補の[[ヒューバート・ハンフリー]]の票とウォレスの票を合算すると、当選した[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[リチャード・ニクソン]]の票を上回るという計算になった。
 
その後、ジョージウォレスは[[1972年アメリカ合衆国大統領選挙|1972年大統領選挙]]と[[1976年アメリカ合衆国大統領選挙|1976年大統領選挙]]で民主党の指名を争うが敗退。また、[[1972年]][[5月15日]]には[[:w:Arthur Bremer|アーサー・ブレマー]]という男に銃撃され、下半身不随となった。しかしアラバマ州知事には[[1970年]]、[[1974年]]、[[1982年]]と選出されている。
 
晩年は親族から敬遠されるなどしたが、かつてキリスト教の信仰に目覚めたこと、軽蔑していた黒人が手を差し伸べてくれたことなどから、自らが推進した差別的政策について公式に全面謝罪した。