「オラドゥール=シュル=グラヌ」の版間の差分

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1944年6月、連合国の[[ノルマンディー上陸作戦]]の進行につれ現地の[[レジスタンス運動|フランス・レジスタンス]]はドイツ軍の作戦を妨害するため、通信攪乱などの各種工作をより積極的に行うようになっていた。参謀本部からの指示を受け、ノルマンディーに向け進軍中であった[[第2SS装甲師団|SS第2装甲師団ダスライヒ]]は行く先々で彼らによる攻撃と破壊工作に苦しめられていた。
 
[[6月10日]]早朝、とある[[フランス人]]2名より密告を受けた[[親衛隊少佐|SS少佐]]<!--Sturmbannfuhrer-->[[アドルフ・ディークマン]]([[:de:Adolf Diekmann]])は、同僚のSS少佐[[オットー・ヴァイディンガー]]([[:de:Otto Weidinger]])に対し「ドイツ人高級将校1名がオラドゥール村で[[マキ (抵抗運動)|マキ]](註:レジスタンス組織)により捕らえられたようだ」と報告した。<!--That day he was to be executed and publicly burnt amidst celebrations.-->そのフランス人はオラドゥールの村民ほぼ全てがマキに関わっており、現在マキの指導者たちがオラドゥールに滞在しているとも述べた。ちょうど同時期、[[リモージュ]]にいた親衛隊保安部員は現地の内通者からマキの司令部がオラドゥールに存在するとの情報を得た。捕らわれたドイツ人高級将校はSS少佐[[ヘルムート・ケンプフェ]]([[:de:Helmut Kämpfe]])とされるが、彼はディークマンとヴァイディンガーの友人であった。なお、その後ンプフェが発見されることはなくSSが作成した「南フランスでの対テロ作戦中の行方不明者リスト」にも彼の名前は載っていない。
 
同日、ディークマンに率いられた第一大隊はオラドゥールを包囲し、住民に村中心部にある広場に集まるよう命令した。表向きの口実は身分証明書の検査であった。集まってきた住民のうち、女性と子供は[[教会]]に連れて行かれた。しばらく経ったのち男性は6つに[[納屋]]に分かれて連行されたが、その納屋には既に[[機関銃]]が待ちかまえていた。生存者の証言によれば、SSはまず脚を狙って発砲。彼らを逃れられないようにした後、たきつけで体を包み、納屋に火をつけた。生存者はわずかに5名(納屋から男性6名が逃げ出したが、そのうち一人は逃亡後すぐに発見され、射殺された)で、197名が死亡した。