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歴史の項にて、小田原合戦の頃の古河城について補足など
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reject_y =[[明治]]6年([[1873年]])|
remains = 堀、土塁|
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== 概要 ==
古河城の起源は、[[平安時代]]末期あるいは[[鎌倉時代]]初期に、[[下河辺行平]]が古河の立崎(竜崎)に築いた城館とされている。[[室町時代]]には、[[古河公方]]・[[足利成氏]]が本拠とし、以後、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の関東における中心の一つとなった。[[江戸時代]]には、多くの[[譜代大名]]が入れ替わりで城主を務め、近代城郭として整備が進められた。[[古河藩]]庁が置かれ、行政機能を担うとともに、[[征夷大将軍|将軍]]の[[日光社参]]時の宿として、あるいは [[江戸城]]の北方の守りとしても機能した。[[明治時代]]初期に廃城となり、明治末に開始された[[渡良瀬川]]の改修工事の際より、残された城跡も大半が消滅した。渡良瀬川の堤防上、[[三国橋 (渡良瀬川)|三国橋]]と[[新三国橋 (国道354号)|新三国橋]]の中間付近には「古河城本丸跡」と書かれた標柱が設置されているものの、周辺に説明板などは設置されていない(2008年9月現在)。
 
古河城は渡良瀬川の河畔にあり、の位置付けは人と川との関わりに影響されてきた。
渡良瀬川は、上流では主に[[栃木県]]・[[群馬県]]の県境近辺を流れ、下流では太日川(今の[[江戸川]])と名前を変え、[[千葉県]]・[[埼玉県]]の県境近辺で[[利根川]]と並行して、東京湾に流れ出ていた。従って、関東を東西に分かつ境界線であると同時に、河川交通により北関東および東京(江戸)・房総を結ぶ物流と交通の幹線であった。このような地理的条件により、中世および近世には重要拠点とされたが、近代に治水問題が重視されるようになると、大規模な河川改修事業により、下流の[[関宿城]]と同様に城跡が徹底的に破壊された。
 
== 歴史・沿革 ==
===平安時代末~鎌倉時代(城の起源)===
[[平安時代]]末[[源頼朝]]に従った武将[[下河辺行平]]が古河の立崎(竜崎)に城館を築いた(『[[永享記]]』等<ref name = kigen>古河城の起源に関しては、『[[永享記]]』にある足利成氏の古河城奪回時の記述「此古河の城は昔日頼朝卿の御弓の師と聞へし下河辺荘司行平より、代々往ける旧館なり、城南東方に竜崎と云う所に、源三位頼政の廟有り」が有名。『[[鎌倉大草紙]]』にも「総州下河辺の城」等の記述がある。</ref>)。正確な時期は分らないが、行平が活躍し始めた1180年頃が目安となる。立崎は[[渡良瀬川]]とその東側に広がる沼地にはさまれた半島状の台地であった。<ref name = yarimizu53>鑓水柏翠(1986)、53 - 98頁(下河辺庄古河)</ref> <ref name = tsushi97>『古河市史通史編』97 – 122 頁(下河辺庄と古河)</ref> <ref name = yorimasa> [http://www.city.ibaraki-koga.lg.jp/06renewal/kanko/03.htm 古河市公式ホームページ 史跡と寺院 頼政神社]</ref>  行平を荘司とする[[下河辺荘|下河辺庄]]は、[[茨城県]][[古河市]]、[[千葉県]][[野田市]]、[[埼玉県]][[幸手市]]・[[吉川市]]・[[三郷市]]など、渡良瀬川とその下流の太日川(今の[[江戸川]])に沿って広がっており、河川交通により結ばれていた。<ref name = tsushi97/>
 
このころ、[[以仁王の挙兵]]にて敗死した[[源頼政]]の首を従者([[下河辺行義]]?)が持ち帰り、立崎に葬ったと言い伝わる<ref name = yarimizu53/> <ref name = tsushi124>『古河市史通史編』124 – 125 頁(頼政神社縁起)</ref>。近世古河城では頼政曲輪の[[頼政神社]]になる。
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===室町時代~戦国時代(古河公方の本拠)===
[[室町時代]]前期の[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]、本城は[[北朝 (日本)|北朝]][[足利氏]]の拠点の一つであった。<ref name = tsushi141>『古河市史通史編』141 – 147 頁(南北朝の動乱)</ref>
 
[[室町時代]]後期から戦国時代にかけては、古河公方の本拠となる。(詳細は「[[古河公方]]」参照)
 
[[享徳の乱]]において、第5代[[鎌倉公方]][[足利成氏]]は[[関東管領]][[上杉氏]]と争い、[[享徳]]4年([[1455年]])[[今川範忠]][[鎌倉]]を占拠されると、[[下総国|下総]]古河に本拠を移した。「古河公方」の成立である。成氏の勢力範囲は、当時の[[渡良瀬川]]・[[利根川]]下流の東側にあった[[下総国]]・[[常陸国]]・[[下野国]]・[[上総国]]・[[安房国]]であり、[[山内上杉家]]および[[扇谷上杉家]]の勢力範囲は、反対側の[[上野国]]・[[武蔵国]]・[[相模国]] ・[[伊豆国]]だった。さらに[[京都]]の[[室町幕府]]も上杉氏を支持、新たな鎌倉公方として[[足利政知]]([[堀越公方]])が東下して、30年近く両勢力は争い続ける。<ref name = tsushi163>『古河市史通史編』163 – 178 頁(古河公方足利氏の成立)</ref> <ref name = sennohara>千野原靖方(2006)</ref>
 
古河を本拠に選んだ理由は、前面の利根川や渡良瀬川が上杉氏に対する天然の堀となり守りやすいこと、[[小山氏]]や[[結城氏]]等、成氏を支持する諸将の根拠地が近いこと、鎌倉公方家の[[御料所]]があり経済的な基盤となったことが挙げられる。成氏は当初、古河の鴻巣にあった[[古河公方館]]を居館とし、立崎の古河城を整備した後に移動した。このころ、扇谷上杉家の家宰である[[太田道灌]]は、古河城に対抗する前線上に[[江戸城]]・[[岩槻城|岩付城]]・[[川越城|河越城]]を築き拠点とした。<ref name = tsushi163/> <ref name = sennohara/>
 
古河公方は代々およそ130年間引き継がれ、古河は室町後期および[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]の関東の中心の一つとなる。[[永禄]]年間([[1558年]]~[[1570年]])には、[[上杉謙信]]と[[北条氏康]]が公方擁立争いのために本城を奪い合い、謙信を支援するために[[関白]][[近衛前久]]が滞在した。その後、[[後北条氏]]の関東支配が確定的になると、古河公方も次第にその支配体制の一部に組み込まれ、城も後北条氏の支城となっ管理下におかれた。<ref name = tsushi178>『古河市史通史編』178 – 190 頁(古河公方足利氏の動揺)</ref> <ref name = tsushi207>『古河市史通史編』207 – 230 頁(古河公方足利氏の終末)</ref> <ref name = sennohara/> 永禄10年(1567年)から[[天正]]年間(1573-1592年)にかけては、[[佐竹氏]]や[[結城氏]]らに対抗するため、[[北条氏照]]のもとで城の整備・拡充が進められる<ref name = nishigaya>[[西ヶ谷恭弘]] 「中世の古河城─古河御所と戦国期の古河城─」『古河市史研究』第11号、1986年</ref> <ref>『古河市史通史編』220 – 221 頁(古河城の整備)</ref >。なお、[[天正]]18年(1590年)の[[小田原征伐|小田原合戦]]では、後北条氏の持城として[[栗橋城]]・[[関宿城]]がみえるが、古河城はみえない<ref>「毛利文書」、『神奈川県史資料編3古代・中世(3上・下)』 No.9770</ref> ことから、最後の古河公方・[[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]が死去したのちの[[足利氏姫|氏姫]]期にも、完全には支城化されず、古河足利氏の本拠として別扱いされていたことが分かる<ref>佐藤博信 『古河公方足利氏の研究』 校倉書房、1989年、179-180頁(古河氏姫に関する考察)</ref>。
 
なお「古河城」という表現は、[[文明 (日本)|文明]]3年([[1471年]]) から)以後、史料に「古河城」といみられるよ表現が本格的使用される。以前は「古河御陣」が多く用いられていた。<ref name = tsushi163/>
 
===江戸時代(日光社参の将軍宿城)===
[[豊臣秀吉]]が後北条氏を滅ぼした後、 [[徳川家康]]に従って[[小笠原秀政]]が[[天正]]18年(()([[1590年]]) に入部し、古河城の修復・拡張を行った<ref name = tsushi233>『古河市史通史編』233 – 238 頁(近世の開始と大名の交代)、247-248頁(3-1表 古河の歴代藩主)</ref>。以後、江戸時代には[[古河藩]]の藩庁がおかれ、歴代藩主の居城となった。また、古河公方時代とは逆に、東北方面をにらみ、江戸防衛の一端を担った。
 
城主は幕府の要職を務めることが多く、[[大老]]の[[土井利勝]]・[[堀田正俊]]、[[老中]]の[[永井尚政]]・[[松平信之]]・[[本多忠良]]・[[土井利厚]]・[[土井利位]]などを数える。<ref name = tsushi238>『古河市史通史編』238 – 246 頁(前期土井氏以降の藩主)、247-248頁(3-1表 古河の歴代藩主)</ref>
 
城下には[[日光街道]]の[[宿場町]]である[[古河宿]]がおかれ展開するとともに、[[渡良瀬川]]による河川水運も発達して、交通・物流の要所となった。
[[徳川将軍家|徳川]][[征夷大将軍|将軍]]による[[日光社参]]では、[[岩槻城]]・古河城・[[宇都宮城]]に宿泊した後、日光に入ることを恒例とし、将軍の宿城の一つとして重視された。<ref>[http://www.city.ibaraki-koga.lg.jp/06renewal/kanko/dejiro/dejiro-5.htm 古河市公式ホームページ 出城通信「日光社参と古河宿城」]</ref> <ref name = nikkodo>阿部昭(2002)、213-214頁(将軍の日光社参)</ref>
 
また、古河城は度重なる渡良瀬川の洪水に悩まされていたため、他には例を見ない洪水対策マニュアルも整備されていた。<ref>[http://www.city.ibaraki-koga.lg.jp/rekihaku/sanpo/9908.htm 古河歴史博物館 歴史の散歩 99.08「古河城 大変」]</ref>
 
===明治以降(渡良瀬川改修と城の消滅)===
[[戊辰戦争]]では、藩内の意見を[[勤皇派]]に統一して戦火を避けたが、[[明治維新後の明治]]6年(1873年)に発布された[[廃城令]]によって廃城処分となり、建造物はすべて破却された<ref name = tsushi582>『古河市史通史編』582 – 583 頁(古河城の破壊)</ref> <ref name = sampo-sentaku>[http://www.city.ibaraki-koga.lg.jp/rekihaku/sanpo/9807.htm 古河歴史博物館 歴史の散歩 98.07「勤皇か!佐幕か!幕末古河藩、苦悩の選択」]</ref> <ref>[http://www.city.ibaraki-koga.lg.jp/rekihaku/sanpo/9906.htm 古河歴史博物館 歴史の散歩 99.06「明治の古河城址保存論」]</ref>。[[迅速測図]](明治15年近辺における地図)上で当時の概要を確認できる。
 
明治末に、度重なる[[渡良瀬川]]の洪水対策を目的として、16年間の大規模な河川改修事業が始まる。このとき主要な曲輪は削平され、堀は埋め立てられて、[[堤防]]や[[河川敷]]などに変わり、城跡のほとんどが消滅した。[[建設機械]]が発達していない時代に、これほどのように規模な城跡を徹底して破壊した例は非常に珍しく、この改修事業の規模の大きさを示すが分かる。ちなみに頼政曲輪(立崎曲輪)が削平された際、小規模な[[古墳]]が発見されている。<ref name = tsushi697>『古河市史通史編』697 – 733 頁(足尾鉱毒事件と古河地方)</ref> <ref name = yorimasa/>
 
この河川改修の際、[[渡良瀬遊水地|遊水池]]を設けるために、古河城の北にあった旧古河藩領・[[谷中村]]が廃村となった。このとき、[[田中正造]]は「[[関宿町|関宿]]の[[江戸川]]分岐点の[[閘門]]を広げて、[[利根川]]の水を地勢に従って[[東京湾]]に流すことで、遊水池がなくても洪水を防げる」と主張し、[[足尾銅山]]の[[足尾鉱毒事件|鉱毒問題]]が治水問題にすりかえられていると批判した。<ref name = tsushi697/>
 
=== 年表 ===
==== 中世(平安時代末~戦国時代) ====
*1180年頃    [[下河辺行平]]が古河の立崎(竜崎)に館を築いた。<ref name = kigen/> <ref name = yarimizu53/> <ref name = tsushi97/>
*[[寿永]]2年([[1183年]]) [[小山朝政]]が[[源義広 (志田三郎先生)|志田義広]]を破った[[野木宮合戦]]では、古河城も拠点の一つになった。<ref name = yarimizu53/> <ref name = tsushi97/>
*13世紀頃    [[鎌倉北条氏|北条氏]]の支配下にあったと考えられる。<ref name = tsushi97/>
*1340年頃    [[北朝_(日本)|北朝]]方の[[高師冬]]が入城し、[[常陸国]][[小田城]]に滞在した南朝方の[[北畠親房]]と対峙<ref>『松平結城文書』「北畠親房御教書写」による。『古河市史資料中世編』No.35 所収</ref>。このころ、古河城は足利氏の拠点であった。<ref name = tsushi141/>
*[[永徳]]2年/[[弘和]]2年([[1382年]]) 南朝方を称した[[小山義政]]が来襲。城主・[[上杉憲栄]]の代官だった[[下河辺朝行]]は防戦したが落城。(『関八州古戦録』)<ref name = tsushi147>『古河市史通史編』147 – 156 頁(小山氏の乱と古河)</ref>
*[[至徳 (日本)|至徳]]3年/[[元中]]3年([[1386年]]) 第二代[[鎌倉公方]][[足利氏満]]が[[小山義政]]遺児の[[小山若犬丸|若犬丸]]の乱鎮圧のため入城。このころ[[野田氏]]が城主になった。<ref name = tsushi147/>
*[[永享]]12年([[1440年]])  [[結城合戦]]では、結城方の野田右馬助([[野田持忠]])・[[矢部大炊助]]らが籠城するが、翌年の[[結城城]]陥落直後に[[上杉清方]]が来襲・落城。<ref name = tsushi156>『古河市史通史編』156 – 162 頁(室町前期の古河)</ref> <ref>『[[鎌倉大草紙]]』、『[[永享記]]』による。</ref> <ref>『戦国人名辞典』788頁(見出し「野田持忠」の解説)</ref>
*[[享徳]]3 年 ([[1454年]]) [[鎌倉公方]][[足利成氏]]が[[関東管領]][[上杉憲忠]]を謀殺し、[[享徳の乱]]が勃発。<ref name = tsushi163/> <ref name = sennohara/>
*[[享徳]]4 年 ([[1455年]]) 上杉方の[[今川範忠]]が[[鎌倉]]を制圧。[[足利成氏]]は、鎌倉から古河に本拠を移した([[古河公方]])。当初は古河鴻巣にあった[[古河公方館]]を居館とした。<ref name = tsushi163/> <ref name = sennohara/>
*[[長禄]]元年 ( [[1457年]]) 足利成氏は立崎の本城を整備して居城とした。<ref name = tsushi163/> <ref name = sennohara/>
*[[文明 (日本)|文明]]3年 ([[1471年]]) [[山内上杉家]]の家宰である[[長尾景信]]来襲。足利成氏は本城を放棄したが、翌年奪回。<ref name = tsushi163/> <ref name = sennohara/>
*文明14 年 ([[1482年]]) [[足利成氏]]と[[室町幕府]]との間に和睦が成立し、[[享徳の乱]]終結。(都鄙合体)<ref name = tsushi163/> <ref name = sennohara/>
*[[明応]]2 年( [[1493年]]) 足利成氏は、城の[[鬼門]]除けとして、[[鎌倉]]の長谷観世音を勧請。(現在の[[長谷観音 (古河市)|長谷寺]])<ref name = tsushi163/>
*明応6 年 ([[1497年]]) 足利成氏没。<ref name = tsushi163/>
*[[永正]]3 年 ([[1506年]]) 第二代古河公方[[足利政氏]]と嫡子の高基との間に抗争が発生し、高基は下野の[[宇都宮成綱]]のもとに走った。<ref name = tsushi178/> <ref name = sennohara/>
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*天文10 年 ([[1541年]]) 北条氏綱没。[[北条氏康]]が家督を継ぐと、山内[[上杉憲政]]と扇谷[[上杉朝定 (扇谷上杉家)|上杉朝定]]が後北条方の河越城攻めを開始。<ref name = tsushi178/> <ref name = sennohara/>
*天文14 年([[1545年]]) 足利晴氏は両上杉側について河越城攻めに参加したが、翌15年の[[河越夜戦]]にて大敗。<ref name = tsushi178/> <ref name = sennohara/>
*天文21 年 ([[1552年]]) 北条氏康の圧力により、足利晴氏は[[足利藤氏|藤氏]]を廃嫡、氏康の甥にあたる[[足利義氏 (古河公方)|義氏]]に家督を譲って、第五代古河公方とした。<ref name = tsushi178/> <ref name = sennohara/> <ref>『喜連川文書』足利晴氏判物(『古河市史資料中世編』No.778)</ref>
*天文23 年 ([[1554年]])  後北条氏に対抗して、足利晴氏・藤氏父子が籠城したが敗れ[[相模国]]波田野に幽閉された。和睦後に晴氏は一旦帰城したが再度捕えられ、[[栗橋城]]に幽閉。<ref name = tsushi207/> <ref name = sennohara/>
*[[永禄]]元年 ([[1558年]]) 北条氏康の圧力により、古河公方家の重臣[[簗田晴助]]は、本拠地である[[関宿城]]を[[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]に進上し、代わりに本城を居城とした。<ref name = tsushi207/> <ref name = sennohara/>
*永禄4 年 ([[1561年]]) 関東に侵攻した[[上杉謙信]]は、簗田晴助による足利藤氏の公方擁立を支援。藤氏、[[関白]]・[[近衛前久]]、上杉憲政が入城。<ref name = tsushi207/> <ref name = sennohara/>
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*[[天正]]10 年 ([[1582年]]) 足利義氏没。古河公方家断絶。<ref name = tsushi207/>
 
==== 近世(江戸時代) ====
*[[天正]]18年 ([[1590年]]) [[豊臣秀吉]]が[[小田原征伐]]の後に城の破却令を出した。<ref name = tsushi207/> <ref>『喜連川文書』による。『古河市史資料中世編』No.1490 所収</ref>
*天正18年 ([[1590年]]) [[徳川家康]]に従っていた[[小笠原秀政]]が入部し、城を修復・拡張した<ref name = tsushi233/>。なお、秀政は城の修復の間、[[栗橋城]]に滞在。
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*[[天和 (日本)|天和]]元年 ([[1681年]]) [[堀田正俊]]が城主となる。[[貞享]]元年 ([[1684年]]) に[[堀田正仲|正仲]]が継ぐ。<ref name = tsushi238/> <ref name = kafu/>
*貞享2 年 ([[1685年]]) [[松平信之|松平(藤井)信之]]が城主となる。次の年に[[松平忠之|忠之]]が継ぐ。<ref name = tsushi238/> <ref name = kafu/> 貞享4年には、幕府を批判した[[熊沢蕃山]]が預けられ、城内の立崎曲輪に幽閉される<ref name = tsushi254>『古河市史通史編』533 – 535 頁(古河藩と好学の気風)</ref> <ref>[http://www.city.ibaraki-koga.lg.jp/06renewal/kanko/bunkazai2/bunka/bunkazaishokai1.htm#13 古河市公式ホームページ 古河の文化財紹介(熊沢蕃山の墓)]</ref>。
*[[元禄]]7 年 ([[1694年]]) [[松平信輝|松平(大河内)信輝]]が城主となる。信輝は城内の[[頼政神社]]を整備した。のち、[[宝永]]6年に[[松平信祝|信祝]]が継ぐ。<ref name = tsushi238/>
*[[正徳 (日本)|正徳]]2年 ([[1712年]]) [[本多忠良]]が城主となる。のち、[[宝歴]]元年 ([[1751年]]) に[[本多忠敞|忠敞]]が継ぐ。<ref name = tsushi238/> <ref name = kafu/>
*[[宝暦]]9 年 ([[1759年]]) [[松平康福|松平(松井)康福]]が城主となる。<ref name = tsushi238/>
*宝暦12 年 ([[1762年]]) [[土井利里]]が城主となる。のち、[[安永]]6年([[1777年]]) に[[土井利見|利見]]、同年に[[土井利厚|利厚]]、[[文政]]5年([[1822年]])に[[土井利位|利位]]、[[嘉永]]元年([[1848年]])に[[土井利亨|利亨]]、同年に[[土井利則|利則]]、[[慶応]]3 年([[1867年]])に[[土井利与|利与]]が継ぐ。<ref name = tsushi238/> <ref name = kafu/>
*[[安永]]5 年 ([[1776年]]) [[徳川家治]]が日光社参の際、城に宿泊し、利見が接待。<ref name = tsushi238/> <ref name = kafu/>
[[File:Sekka zusetsu.jpg|thumb|200px|right|『[[雪華図説]]』。[[土井利位]]著、1832([[天保]]3)年刊。[[国立科学博物館]]の展示。]]
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*[[慶応]]4 年 ([[1868年]]) [[勤皇派]]と[[佐幕派]]の対立があったが、城内の意見を勤皇派に集約し、[[土井利与]]が京都で天皇に勤皇の意思を表明。<ref name = sampo-sentaku/>
 
==== 近代(明治以降) ====
*[[明治]]4 年 ([[1871年]]) [[廃藩置県]]により、古河藩は古河県に改められた。
*明治6 年 ([[1873年]]) 政府の[[廃城令]]により、城の取り壊しが決定し、翌年には建造物がすべて破却された。<ref name = tsushi582/>
*明治43年 ([[1910年]]) [[渡良瀬川]]改修開始。[[大正]]14 年 ([[1925年]]) まで続けられた大改修工事により、城跡もほぼ消滅した。<ref name = tsushi697/>
 
== 構造 ==
=== 中世===
[[画像:koga-jou.jpg|right|thumb|360px|古河城の全体図(江戸時代後期)]]
[[古河公方]]時代を含む中世の構造はよく知られておらず、今後の調査・研究が期待されている。[[足利成氏]]時代の城域は、近世古河城の本丸付近と推定されている。『[[松陰私語]]』には、[[文明 (日本)|文明]]年間([[1469年]]~[[1487年]])に[[岩松尚純]]が古河に出仕したときの様子が記されており、古河公方御所に大きな「四足御門」があったこと、御所の周辺に宿所と呼ばれる家臣団の集落があったことなどが分かる。<ref name = nishigaya>[[西ヶ谷恭弘]] 「中世の古河城─古河御所と戦国期の古河城─」『古河市史研究』第11号、1986年</ref> なお、舟で往来可能な[[古河公方館]]と一体となり、あわせて広大な水城を形成していた<ref>鑓水柏翠(1986),158-159頁</ref>との見方も示されている。
 
伝承によれば、[[日光街道]]以前の奥州への古い街道が近世古河城内を川沿いに縦断していたとされる(『日光道中略記』)<ref name = tsushi254/>。『[[古河誌]]』によれば、観音寺曲輪・桜町曲輪に城下町にあたる宿場が展開していた<ref name = tsushi254/>。観音寺曲輪には[[小山氏|下野小山氏]]の一族が開いた「小山観音寺」があったが、[[慶長]] 7年([[1602年]])頃、城の拡張のため[[古河宿|城下]]に移転している<ref name >『古河市史通史編』197 頁(小山観音寺)</ref> <ref >『古河市史資料別巻』245頁(古河誌)</ref>。桜町曲輪には[[連歌師]]の[[猪苗代兼載]]が居を構え、その屋敷には多くの桜が植えられていたと伝わる<ref >『古河市史資料別巻』247頁(古河誌)</ref>。茂平河岸近くには[[雀神社 (古河市)|雀神社]]とその[[別当寺]]だった[[神宮寺 (古河市)|神宮寺]]<ref>『古河市史資料別巻』262-263頁(古河誌・雀宮)</ref>、三の丸には[[八幡神社 (古河市八幡町)|八幡宮]]<ref>『古河市史資料別巻』264-265頁(古河誌・八幡町八幡宮)</ref>、城の南端・立崎曲輪近辺には[[頼政神社|頼政祠]]<ref>『古河市史資料別巻』260-265頁(古河誌・頼政社)</ref>・[[徳星寺 (古河市)|徳星寺]]<ref>『古河市史資料別巻』272-275頁(古河誌・徳星寺)</ref>・[[妙光寺 (古河市)| 妙光寺]]<ref>『古河市史 民俗編』 834-835頁(妙光寺)</ref>・竜樹院<ref>『古河市史資料別巻』296頁(古河誌・竜樹院)</ref> があったが、城の拡張により、[[江戸時代]]には頼政祠を除く寺社が[[古河宿|城下]]へ移転した。
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[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期に関しては、最近、『[[池田家文庫]]』([[岡山大学]]附属図書館蔵)の「下総古河城図」<ref>[http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ikedake/ezu/metadata/486 岡山大学池田家文庫絵図公開データベースシステム・下総古河城図] </ref>(年代:[[貞享]]5年(1688年)7月)の考察が行われた。城周辺の寺社の配置や、川筋が[[利根川東遷事業]]以前の状態を示していることから、[[天正]]年間(1573-1592年)の[[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]・[[足利氏姫|氏姫]]期と推定されており、特に氏姫期である可能性が高い。この絵図によれば、本丸の位置や規模は近世古河城と同様だが、近世の桜門が「大手門」とされる。また近世の観音寺曲輪内には「大沢曲輪」・「観音寺曲輪」・「家来曲輪」とされる区画があり、桜町曲輪内には「大打(大内?)曲輪」、三の丸内には「放生(ほうじょう・北条?)曲輪」が見られる。本丸の南側には「山内曲輪」・「頼正(頼政)堂」と記された区画もある。[[後北条氏]]を始めとする関東諸士が城内に居住していたことを示唆するとともに、従来は伝承のみだった小山観音寺氏の屋敷や、頼政祠の存在を裏付けている。また、水堀が[[古河公方館]]の周囲にまで広がっており、当時は舟で往来できたという伝承も裏付けるものとなっている。<ref name = hayakawa>早川和見 「発見!古河公方時代の古河城絵図について(1)」『古河郷土史研究会 会報』 第51号、1-11頁、2013年</ref>
 
この時期の古河城は[[後北条氏]]による大幅な改修が加えられており<ref>『古河市史通史編』220 – 221 頁(古河城の整備)</ref> <ref name = nishigaya/>、初代[[古河公方]]・[[足利成氏]]以降とは異なる点も多いが、伝承や断片的な史料から推測するだけだった近世以前の姿を示す新たな手がかりの一つとして注目される。
 
=== 近世(江戸時代) ===
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*[[阿部昭]] 『街道の日本史15 日光道中と那須野ヶ原』 吉川弘文館、2002年
*[[佐藤博信]] 『古河公方足利氏の研究』 校倉書房、1989年
*古河市史編さん委員会 編 『古河市史資料別巻』 古河市、1973年
*古河市史編さん委員会 編 『古河市史資料近世編(藩政)』 古河市、1979年