「高宗 (唐)」の版間の差分

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父太宗の晩年に、[[皇太子]]であった同母長子の[[李承乾]]と第4子の魏王[[李泰]]が内訌を理由に共に廃立された。母方の伯父の[[長孫無忌]]の進言もあり、第9子の李治が代わって皇太子に立てられ、太宗の死にともない皇帝に即位した。太宗に溺愛された異母兄の呉王[[李恪 (呉王)|李恪]]([[隋]]の[[煬帝]]の外孫でもあった)を擁立する動きが見られたため、長孫無忌は呉王に謀反の嫌疑をかけて自殺に追い込み、一族を処刑した。
 
[[668年]]、[[新羅]]と共同([[唐・新羅の同盟]])して、[[隋]]以来敵対関係にあった[[高句麗]]を滅亡させる([[唐の高句麗出兵]])。こうして新羅を除く[[朝鮮半島]]を版図に収め、[[安東都護府]]を設置、唐の最大領土を現出したが、[[676年]]に新羅が朝鮮半島全土を統一([[・新羅戦争]])すると、朝鮮半島経営を放棄した。
 
この時期になると、[[外戚]]の長孫氏が皇后である[[武則天|武氏]]の一派によって追放され、代わって武后が政治の実権を掌握するようになっていた。このため高宗は武后廃立を計画したが、失敗する。後に丹薬による中毒で眼病を患い、唐の実権は完全に武后により掌握された。このような状況の中[[683年]]に[[崩御]]した。