「秦河勝」の版間の差分

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== 概要 ==
秦氏は[[6世紀]]頃に[[朝鮮半島]]を経由して日本列島の倭国へ渡来した[[渡来人]]集団と言われ、そのルーツは[[]]の[[始皇帝]]ともいう。河勝は秦氏の族長的人物であったとされ、[[聖徳太子]]の側近として活躍した。また、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれ、その財力により[[平安京]]の造成、[[伊勢神宮]]の創建などに関わったという説もある{{要出典|date=2008年5月}}。聖徳太子より[[弥勒菩薩半跏思惟像]]を賜り[[広隆寺]]を建てそれを安置した。[[610年]]、[[新羅]]の使節を迎える導者の任に当る。[[644年]]、[[駿河国]][[富士川]]周辺で、[[大生部多]](おおふべのおお)という者を中心に「[[常世神]]」を崇める集団(宗教)を、河勝が追討した、とされる。
 
没したのは[[赤穂市|赤穂]]の[[坂越]]である。一説には流罪に遭ったためという{{要出典|date=2008年5月}}。坂越浦に面して秦河勝を祭神とする[[大避神社]]が鎮座し、神域の[[生島]]には秦河勝の墓がある。なお、広隆寺近隣には大酒神社があるが、[[神仏分離]]政策に伴って、広隆寺境内から現社地へ遷座したものである。
 
本拠地とした[[京都市]][[右京区]][[太秦]](うずまさ)や、秦河勝の墓のある[[大阪府]][[寝屋川市]][[太秦 (大阪)|太秦]]にその名を残す。さらに右京区西京極にはかつて川勝寺とよばれる寺があり、近隣には「秦河勝終焉之地」の碑がある。この地域は明治の初めまで川勝寺村(せんじょうじむら)と呼ばれ、住民の多くは自らを河勝の子孫と認識していた{{要出典|date=2008年5月}}。秦氏の後裔を称するものは甚だ多く、戦国大名で知られる[[土佐国]][[戦国大名]]の[[長宗我部氏]]が有名。幕臣[[川勝氏]]も河勝の子孫を称した。また[[猿楽]]などに従事した[[芸能]]の民にも河勝の裔を名乗る称した多く、代表的なものとしては[[金春流]]が挙げられる。「秦河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。」と[[金春禅竹]]が『明宿集』の中で記している。長谷川党は大和の国衆・十市氏を刀禰とする武士団であり、[[薩摩国]]の[[島津氏]]の系譜と密接な関係がある。また、河勝は猿楽の祖でもあり、[[能楽]]の[[観阿弥]]・[[世阿弥]]親子も河勝の子孫を称した。現在、[[楽家]]として知られる[[東儀家]]は河勝の子孫であるといわれている<ref>[http://iwarehiko.web.fc2.com/page071.html 東儀家系図]</ref>。
 
==挿話==