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[[ドイツ]]の[[ハンブルク]]に近いエルムスホルンに生まれ、[[1904年]]から[[1908年]]まで、ゲッティンゲン大学と[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]の双方で[[数学]]と[[物理学]]を学んだ。ゲッティンゲン大学では、敬愛するダフィット・ヒルベルトの指導のもとで学位を得た。数年間大学で教育に携わった後、数学のポストを得てスイス連邦工科大学に移り、一般相対性理論の研究を行っていた[[アルベルト・アインシュタイン]]の同僚となった。アインシュタインは、後に数理物理学で業績を残すことになるワイルに大きな影響を与えた。[[1921年]]に、ワイルは[[チューリッヒ大学]]に教授として移った[[エルヴィン・シュレーディンガー]]に会っている。彼らはその後も親しく交際した。
 
ワイルはヒルベルトの後継者となるため、[[1930年]]にゲッティンゲンに戻ったが、夫人がユダヤ系であったため、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の力が強くなると[[1933年]]には[[プリンストン高等研究所]]に移り、[[1951年]]に退職するまでそこに在籍した。その後は夫人とともにプリンストンとチューリッヒで過ごし、[[1955年]]にチューリッヒで死去した。
 
== 業績 ==