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'''毛利 広盛'''(もうり ひろもり、[[天文 (元号)|天文]]2年([[1533年]]) - [[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]後期の武将。[[美濃国]][[八神城]]主。のち[[尾張藩]]藩士。[[本姓]]は[[源氏]]。家系は[[清和源氏]]の一家系 [[河内源氏]]の[[棟梁]]、[[鎮守府将軍]][[源義家]]の七男[[源義隆]]にはじまる[[毛利氏 (源氏)|陸奥七郎義隆流毛利氏]]。通称は掃部または三郎という<ref name="compact">[[阿部猛]]・[[西村圭子]][[編集|編]]『戦国人名事典コンパクト版』([[新人物往来社]]、[[1990年]]) 775頁参照。</ref>
 
== 来歴 ==
当初、[[美濃国|美濃]][[斎藤氏]]に仕えていたが、[[織田信秀]]の家臣に転じ、その後[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]、[[徳川家康]]、[[徳川義直]]に仕える。最終的には[[尾張藩]]士となって先祖代々の地を安堵され、[[尾張藩]]の重臣として重要な役割を果たした。先祖は[[河内源氏]]の棟梁、[[源義家]]の七男・[[源義隆]]の子[[源義広 (毛利治部丞)|毛利義広]]といわれ、源姓毛利家13代当主となる。広盛と同じく斎藤家から織田家へと転じた[[森氏]]の当主・[[森可成]]とは同じ祖先を持つ関係にある<ref name="compact"/>
 
毛利家の家伝である『毛利文書』によると、天文6年([[1537年]])[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]、織田信秀が毛利広盛に八朔祝儀を謝すと記録されている。ただ、広盛はこの折には幼少のため、父[[毛利広包]]の誤りか、もしくは父の代参として名義が使われたか、詳細は不明である。
 
[[永禄]]6年([[1563年]])、織田信長が広盛に対して合戦で討死にした親(毛利広雅、つまり毛利広包のこと)の忠節を讃えるという。[[天正]]12年([[1584年]])[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]、主君・秀吉より毛利広盛へ忠節により新知及び本知都合2660貫文を宛行うとされ、同日、広盛へ知行方目録が下された。さらに、同文書によると、天正17年[[1589年]][[11月19日 (旧暦)|11月19日]]には、[[豊臣氏|豊臣家]][[五奉行]]の[[増田長盛]]により、同じ豊臣家中の[[伊藤秀盛]]へ毛利広盛に対して知行を渡すよう指示があり、同日中に伊藤秀盛、毛利広盛へ増田長盛の指示により大須・八上・八上川東・野方を渡す旨が記録されている。当時、毛利家は八神村に3000石を知行した<ref name="compact"/>
 
[[関ヶ原の戦い]]の前哨戦となる東軍方による[[岐阜城の戦い|岐阜城攻め]](城主は信長嫡孫[[織田秀信]])があった折、広盛は西軍に就き、援軍として[[杉浦重勝]]の竹ヶ鼻城の二の丸を守っていたものの、攻め寄せてきた[[福島正則]]の降伏の勧めに従い開城したと記録されている([[竹ヶ鼻城の戦い#慶長5年の竹ヶ鼻城の戦い|竹ヶ鼻城の戦い]])。その後、徳川家康の家臣となり、家康の命によりその九男で尾張藩祖となる義直の重臣として仕えることとなった。関ヶ原の後、1000石の減知があって2000石となるが、旧領の八神村を安堵され、八神城主として存続する。広盛の子には毛利広之、[[毛利広義]](広高とも)、毛利広重がおり、それぞれ尾張藩士となっている<ref name="compact"/>
 
== 脚注 ==
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== 参照文献 ==
* 阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典コンパクト版』(新人物往来社、1990年) ISBN 4404017529
==関連項目==
*[[毛利氏 (源氏)]]