「フランコ体制下のスペイン」の版間の差分

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== 第二次世界大戦 ==
{{main|第二次世界大戦下のスペイン}}
こうしたフランコ政権の中で尤も有力なファシストがフランコの義弟{{仮リンク|ラモン・セラーノ・スニェール|en|Ramón Serrano Súñer}}であった{{sfn|野上和裕|2009|pp=32}}。セラーノはファランヘ党の書記長、内相を務め、1940年からは外相となった。また[[第二次世界大戦]]においては[[枢軸国]]への接近を主張し、1940年のフランコ・ヒトラーの{{仮リンク|アンダイエ会談|es|Entrevista de Hendaya}}を実現させた。ヒトラーはスペインの参戦を求め、フランコも一時これに同意した{{sfn|ゲルハルト・クレーブス|2000|pp=285-286p}}。しかしその後は言を左右にして参戦を拒み、[[中立国]]ではあるものの親枢軸国側である「[[非交戦]]([[:en:Non-belligerent]])」国家として振る舞った{{sfn|ゲルハルト・クレーブス|2000|pp=282}}。
 
スペインは諜報活動などで枢軸国側に便宜を図ったものの、これは原油の一大輸入先であるアメリカの怒りを買った。アメリカはスペインへの石油禁輸を行って圧力を加え、枢軸側への資源売却が監視されるようになった{{sfn|ゲルハルト・クレーブス|2000|pp=289}}。その後枢軸側の退勢が明らかになる1942年には、フランコは枢軸国側を見切る方針を固めた。セラーノはすべてのポストから解任されて失脚した{{sfn|野上和裕|2009|pp=32}}。体制が揺らぐ中、1943年9月15日には王党派の中将8名が王政復古を求める意見書をフランコに提出するという事件が起きた{{sfn|野上和裕|2009|pp=40}}。