「ディミトリス・スグロス」の版間の差分

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== 経歴 ==
[[アテネ]]生まれ。[[神童]]の名をほしいままにし、10歳で[[アテネ国立音楽院]]のピアノ科[[教授]]となった。7歳でリサイタル・デビュー。12歳のときに[[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ|ロストロポービッチ]]指揮で[[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]]の『[[ピアノ協奏曲第3番 (ラフマニノフ)|ピアノ協奏曲第3番]]』で[[カーネギー・ホール]]デビュー。13歳で[[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]]の『[[ピアノ協奏曲第3番 (ラフマニノフ)|ピアノ協奏曲第3番]]』を弾き、英国ロイヤル・フェスティヴァルホールデビュー([[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ|ロストロポービッチ]]指揮/ロンドンPO)。翌日の[[ザ・タイムズ]]紙に、「大成功を博した。大成功を博したばかりではなく、しずかに大成功をおさめた。あれは最大の脅威だった」と論評された。リストの『[[超絶技巧練習曲]]』(抜粋)と『[[メフィスト・ワルツ|メフィスト・ワルツ1番]]』を14歳の時に録音。また45曲のピアノ・コンチェルトをレパートリーにしていたという。[[アルトゥー・ルービンシュタイン]]をして、”私を含めたすべてのピアニストの中で最も優れている”と言わしめ、愛用の金時計をプレゼントしている。 1983年に[[ベルリン・フルハーモニー管弦楽団]]と[[ラフマニノフ]]のピアノ協奏曲第3番を録音(指揮は[[ユーリ・シモノフ]])。現在も教育と芸術を合わせた講義を世界各地の大学で行っており、母国を中心にコンサート活動を行っている。
 
== 外部リンク ==