「ジュリア・ファルネーゼ」の版間の差分

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またジュリアと教皇の愛人関係のおかげで長兄のアレッサンドロは[[枢機卿]]の地位を得た。このため詩人[[パスクイーノ]]はファルネーゼ枢機卿を「[[スカート]]の枢機卿」と呼んだ。
 
ジュリアはラウラという[[娘]]を産んだ。ラウラの父親がオルシーノとアレクサンデル6世のどちらなのかは判然としない。マリア・ベロンチはジュリアが夫オルシーノと夫婦関係を保っていたという証拠の存在を信じている。事実がどうであれジュリアは生まれた娘の父親を教皇であると主張した(つまり[[婚外子]]だとした)が、これは将来娘の結婚をより有利なものにするためだったかも知れない。1494年、ジュリアは死の床についていた弟アンジェロを[[カポディモンテ]]に見舞ったとき、教皇の怒りを買った。彼女は夫オルシーノの命令により弟の死後もローマから遠ざけられた。しかしオルシーノは最終的にはジュリアを呼び戻したい教皇による圧力に屈し、ジュリアは愛人の許に戻ることになった。この時[[フランス王国|フランス]]王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]による[[イタリア戦争|イタリア侵攻]]が始まっており、旅の途中でジュリアはフランス軍の隊長イヴ・ダレールに捕えられた。ダレールは教皇に対し、身代金3000スクードを支払えばジュリアを無事にローマまで送り届ける、という要求を突きつけた。
 
ジュリアは1499年ないし1500年まで教皇の愛人であったが、この時期には年齢を重ね、教皇の寵愛を失ったように思われる。ベロンチは2人の関係がアドリアーナの友好的なとりなしによって終わったと考えている。夫オルシーノもこの時期に亡くなった。ジュリアはローマからそう遠くない[[カルボニャーノ]]に移住した。この町はアレクサンデル6世がオルシーノに与えたものだった。教皇は3年後の1503年に死んだ。