「哱拝の乱」の版間の差分
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3月4日、霊州土官の呉世顕が反乱軍に加わる。11日、モンゴルの宰{{lang|zh|儈}}が3000人を率いて反乱に呼応すると約束し、17日に到着した。14日、反乱軍に占拠された諸塁を全て官軍が奪い返し、反乱軍は寧夏城に押し込まれた。19日、{{lang|zh|哱拜}}はモンゴルの援兵に対して家丁500・火器手500を派遣合流させ、モンゴル数千騎を寧夏に招致した。モンゴル軍はモンゴルと{{lang|zh|哱拜}}は最早家族であると親密なことを宣言し、{{lang|zh|哱拜}}と土文秀は胡服弁髪で迎合した<ref name="okano1996"/>。
4月2日、明軍総兵の魏学曽は花馬池へ移動し、モンゴルに和議体制への回帰を促したが、モンゴル軍は表面上は退去の様子を見せながらも反乱軍を支援した。3日、魏学曽は李昫に城攻めを命じた。反乱軍は弁髪してモンゴル軍に偽装してこれを迎え撃った。5日、{{lang|zh|哱}}雲が明軍を攻撃して火車100両を奪い、湖へ追い落として1000人余りを溺死させた。明軍は王通を派遣して{{lang|zh|哱}}雲を含む1000人余りを殺傷した。劣勢となった反乱軍は民衆の蜂起を恐れて城中の見回りを強化し、外出を禁止するなどした。10日、魏学曽は家丁の葉得辛を派遣して、{{lang|zh|哱拜}}と土文秀により劉東暘と許朝を討たせようとしたが、4人の結束は固かった。しかし、モンゴル兵への援助の代償に
7月4日、モンゴルとの連絡を絶たれた{{lang|zh|哱拜}}は城を捨ててモンゴルへ走ることを提案するが、息子の{{lang|zh|哱}}承恩は反対した。11日、明軍は寧夏城の東北が低地であることから、水攻めを開始した。17日、総督の魏学曽が罷免され、葉夢熊が後任となった。18日、堤防が完成し、湖の水が注がれた。モンゴル軍が沙湃などへ侵入した。{{lang|zh|哱拜}}や許朝は寧夏への誘導を行ったが、退去するモンゴル兵が多かった。20日、水攻めにより寧夏城が浸水し始めた。8月1日、反乱軍が船で堤防を破壊して水が引いた。破壊された堤防を築いた呉世顕は明軍に責任を追及されて処刑された。7日、堤防が修復されて再度水が注がれた。
11月11日、{{lang|zh|哱}}承恩は京師にて磔刑にされた。
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