「義安寺」の版間の差分

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寺伝によれば、[[天文 (元号)|天文]]8年([[1539年]])に河野景通の子・河野彦四郎義安が建立したといわれる。[[河野氏]]の本拠であった[[湯築城]]の東約100[[メートル|m]]に位置する河野氏ゆかりの寺院である。寺院名は建立者に由来する。
 
[[天正]]13年([[1585年]])河野氏当主の[[河野通直#河野通直 (伊予守)|河野通直]]は[[豊臣秀吉]]の[[四国征伐]]の際に、[[小早川隆景]]の説得により降伏した。これにより[[伊予国]]は小早川隆景の支配下となった。この時、一族、譜代の家臣が当寺に集結し井戸の水を飲み交わして二君に仕えないことを約し自刃して果てたと伝わる。この話は[[宝永]]7年([[1710年]])に編纂された『南膽部州大日本南海道予陽郡郷俚諺集(略称・予陽郡郷俚諺集)』に記されている。この井戸は「誓いの泉」と呼ばれ境内にある。
 
当寺の周辺は[[蛍]]の名所であった。かつてこの周辺で見られた大振りの蛍は「義安寺蛍」と呼ばれ、自刃した武士達の魂が飛んでいるのだと伝えられていた。