「アプリオリ」の版間の差分

編集の要約なし
m (ボット: 言語間リンク 45 件をウィキデータ上の (d:Q178161 に転記))
'''アプリオリ'''とは、[[経験]]的[[認識]]に先立つ先天的、自明的な[[認識]]や[[概念]]。[[カント]]および[[新カント学派]]の用法。[[ラテン語]]の''a priori''に由来する。[[日本語]]では、「先験的」「先天的」「超越的」などと訳される。
 
== 概要 ==
=== カントにおける「アプリオリ」の概念 ===
カントによれば時間と空間はアプリオリな概念である。なぜならこの二つは、あらゆる経験的認識に先立って認識されている概念だからである<ref>この二つが先立っていることが絶対に自明なのではなく、この二つが与えられなければ、[[物自体]]が認識できない以上、[[純粋直観]]として、何も認識できないことを、カントは強調している。</ref>。
「わたしは何を知ることができるか」「わたしは何をなすべきか」を問い、自然や人間を認識する「[[理性]]」(理論理性)の限界を明らかにするために[[批判哲学]]を打ち立てた[[18世紀]][[ドイツ]]の哲学者[[イマヌエル・カント]]は、[[哲学]]もまた[[数学]]や[[自然科学]]にならって、必然的で普遍的な思考方法を獲得しなければならないと主張した。そして、そのためには、人間のあらゆる[[経験]]から独立して、理性自身が認識のわく組みを決めることができなければならない、とした。これが「アプリオリな認識」である(アプリオリな認識のうち、経験的なものをまったく混入していない認識を「純粋認識」と呼ぶ<ref>[[山崎正一]]編『カント』(1977)p.68</ref>。
 
カントによれば、[[時間]]および[[空間]]はアプリオリな概念である。なぜならこの2つは、あらゆる経験的認識に先立って認識されている概念だからである<ref group="注釈">この2つが先立っていることが絶対に自明なのではなく、カントが強調しているのは、この2つが与えられなければ、[[物自体]]が認識できない以上、[[純粋直観]]として何も認識できないということを、カントは強調していである。</ref>。
なお、この二つは自然に想像される時間あるいは空間ではなく形式的である。[[感覚]]的には[[太陽]]が[[地球]]を回っているように「感じられる」としても、そうではないという[[比喩]]をカントも援用していることから、ある新しい構成<ref>この場合は経験、感覚等を[[捨象]]することにより、地球が太陽を周回しているという[[綜合的判断]]が得られる。</ref>の為に、それらは純粋直観に与えられる、という比喩表現を許されたい。この空間は、物理空間に先立つ=(アプリオリ)な空間である。純粋直観が不可能であれば[[デイヴィッド・ヒューム|ヒューム]]的懐疑に陥るという懸念にも留意されたい。
 
なお、この2つは自然に想像される時間あるいは空間ではなく形式的なそれである。[[感覚]]的には[[太陽]]が[[地球]]を回っているように「感じられる」としても、実際にはそうではないという[[比喩]]をカント自身も援用していることから、ある新しい構成」のために、それらは純粋直観にあたえられるのである<ref group="注釈">この場合経験・[[感覚]]等を[[捨象]]することにより、地球が太陽を周回しているという[[綜合的判断]]が得られる。</ref>の為に、それらは純粋直観に与えられる、という比喩表現を許されたい。この空間は、物理空間に先立つ=((=アプリオリ空間である。純粋直観が不可能であれば[[デイヴィッド・ヒューム|ヒューム]]的懐疑に陥るという懸念にも留意されたい。
もっとも今日的な一般的用法としては、アプリオリとは、「演繹的証明の必要のない自明的な事柄」という意味で使われることが多い。
 
=== 諸哲学における用法 ===
また[[フレーゲ]]によれば、命題の真偽が論理法則のみに依拠すれば「アプリオリ」であり、経験的事実に依拠すれば「アポステリオリ」となる<ref>ここでいう「命題」とは厳密には「ある判断の真理性の証明」を指す。野本和幸『フレーゲ哲学の全貌』勁草書房2012(p.155),</ref>。
もっとも哲学における今日的な一般的用法としては、アプリオリとは、「演繹的証明の必要のない自明的な事柄」という意味で使われることが多い。
 
また[[フレーゲ]]によれば、命題の真偽が論理法則のみに依拠すれば「アプリオリ」であり、経験的事実に依拠すれば「アポステリオリ」となる<ref>。なお、ここでいう「命題」とは厳密には「ある判断の真理性の証明」を指す。している<ref>[[野本和幸]]『フレーゲ哲学の全貌』勁草書房2012(p(2012)p.155),</ref>。
[[フッサール]][[現象学]]では、直観によるアプリオリの作用(抽象)を「本質直観」と呼んでいる<ref>本質直観は「イデー化(理念化)」とも呼ばれており、フッサール自身、様々な角度から説明を試みている。『デカルト的省察』・『論理学研究』など</ref>。
 
[[フッサール]][[現象学]]では、直観によるアプリオリの作用(抽象)を「本質直観」と呼んでいる<ref group="注釈">本質直観は「イデー化(理念化)」とも呼ばれており、フッサール自身、様々な角度から説明を試みている。『デカルト的省察』・『論理学研究』など</ref>。
 
[[認識論]]において用いられる難解な言葉であり、アプリオリは[[アポステリオリ]]の[[対語]]である。「先験的」「先天的」などと訳される場合があるが、どちらの訳もこの語の意味にあっていないと言われ、多くの場合「アプリオリ」と[[カタカナ]]で書かれる。
アプリオリの具体的な意は、「私はこのことをアプリオリに知っている」は「私はこのことを知っているが、経験を通じて知ったのではない」と言うような具合である。アプリオリの意は非常に複雑であり、わかりにくいと言われる。
 
「物事には原因がある」という観念は、実際の経験事実よりも「先立って」存在している。つまり[[因果律]]は経験に先立っている(prior)(prior)から、「アプリオリ」な観念だといわれる。
 
== 法学におけるアプリオリ ==
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
<div class="references-small">{{Reflist|2}}</div>
 
== 参考文献 ==
*[[山崎正一]]編『世界の思想家11 カント』平凡社、1977年、
* 野本和幸『フレーゲ哲学の全貌』勁草書房、2012年
 
 
{{philos-stub}}
 
{{DEFAULTSORT:あふりおり}}
匿名利用者