「佐々木道誉」の版間の差分

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この様に一時導誉は高経の下風に立ち、京極佐々木家内の内紛から発生した3男の[[佐々木高秀|高秀]]による家臣筆頭の[[吉田厳覚]]暗殺事件についても高経につけこまれる<ref>正平18年/貞治2年([[1363年]])[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]、吉田厳覚が秀綱の孫で導誉の曾孫に当たる嫡流の[[佐々木秀頼]]を擁立しようとしてに高秀に殺害された。高秀は事件前後に義詮に報告、黙認を取り付けていたが、高経は事件の責任を追及して高秀の侍所頭人を辞職に追い込んだため、導誉の失脚を目論んだ可能性がある。</ref>。更には高経から任された五条橋の建築が遅延した為、高経自身がこれを自分で素早く建築してしまうという出来事が発生し、導誉は高経に面目を潰され高経との関係は決定的に悪化する。
 
[[File:Sasaki Dōyō's Grave in Shōraku-ji.jpg|thumb|勝楽寺の墓所]]
そこで導誉はまず高経が将軍の邸で開催する花見に目をつけた。導誉はその花見の日にぶつける形で原野で盛大な花見の会を開いた。それは京都中の芸能人が根こそぎ集められ、香が焚かれ「世に類無き遊」と謳われるほどのものだった。こうして高経に意趣返しをした導誉は今度は高経の追い落としを図る。高経の高圧的な政治は守護層の反発を招いており、導誉はこうした守護をとりまとめると義詮に讒言し、正平21年/貞治5年([[1366年]])に高経は失脚した([[貞治の変]])。また、南朝とのパイプを持ち和睦交渉に尽力するも成果を出せなかった。
 
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