「慶長出羽合戦」の版間の差分

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|combatant1 = 上杉軍[[ファイル:Japanese Crest Uesugi Sasa.svg|15px]]
|combatant2 = 最上・伊達連合軍[[image:Futatsuhikiryo.svg|15px]][[image:Take ni Suzume.svg|15px]]
|commander1 = [[直江兼続]][[image:Japanese Crest mitumori Kikkou ni Mituba.svg|15px]]<br>[[春日元忠]]<br>[[小野寺義道]]<br>[[志駄義秀]]
|commander2 = [[最上義光]][[image:Futatsuhikiryo.svg|15px]]<br>[[留守政景]][[image:Goshichi no kiri wide inverted.jpg|15px]]<br>[[志村光安]]<br>[[鮭延秀綱]]<br>[[江口光清]]
|strength1 = 25,000
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9月17日、兼続は[[春日元忠]]に命じ、さらに城を激しく攻め立てた。しかし、長谷堂城の周りは深田になっており、人も馬も足をとられ迅速に行動ができない。そこへ最上軍が一斉射撃を浴びせて上杉軍を散々に撃ち付けた。業を煮やした兼続は、長谷堂城付近で[[刈田狼藉]]を行い城兵を挑発するが、志村は挑発には乗らず、逆に兼続に対し「笑止」という返礼を送ったとされる。
 
9月21日には、伊達政宗が派遣した留守政景隊3千の軍勢が<!--[[最上義光]]の甥でやはり東軍に与していた[[伊達政宗]]は、援軍として[[留守政景]]を将とした約3000の軍勢を遣わし、伊達勢は-->白石から[[笹谷峠]]を越えて山形城の東方(小白川)に陣し、9月24日には直江兼続本陣から約2km北東の[[須川]]河岸の沼木に布陣する<!--一説には山形城が落城するまで傍観し、疲弊した上杉勢を討ち、漁夫の利を得ようとしていたともいう。しかしいずれにしろ、伊達の援軍をあわせても、上杉軍の兵力における優位に変わりはなかった。-->また、最上義光も9月25日山形城を出陣し、稲荷塚に布陣した。ここにおいて時戦況は膠着するものの、9月29日上杉勢は総攻撃を敢行、長谷堂城を守る志村光安はなおも善戦し、9月29日には上杉軍の武将・[[上泉泰綱]]を討ち取るという戦果を挙げた。
 
== 撤退戦 ==
[[ファイル:Keicho-Dewa-Gassen2.jpg|thumb|250px|撤退戦の概略図]]
そしてこの29日に、[[関ヶ原の戦い|関ヶ原]]において石田三成率いる西軍が、徳川家康率いる東軍に大敗を喫したという情報が、直江兼続のもとにもたらされた。敗報を知った兼続は自害しようとしたものの[[前田利益]](前田慶次郎)に諫められ撤退を決断したとされる。翌9月30日最上勢も関ヶ原の結果を知ることとなり、攻守は逆転する。10月1日上杉軍が撤退を開始、最上伊達連合軍が追撃した。富神山の付近で陣頭に立つ最上義光の兜に銃弾が当たるなど大激戦となり両軍多くの死傷者を出した。追撃軍を迎え撃つため直江兼続は自ら畑谷城に手勢と共に立てこもって殿をつとめ、10月3日荒砥に退却した。この戦では、陣頭に立つ最上義光の兜に銃弾が当たるなど大激戦となり両軍多くの死傷者を出した。しかし前田利益や[[水原親憲]]などの善戦もあり、兼続は鉄砲隊で最上軍を防ぎながらその追撃を振り切り10月4日米沢城に帰還した。『最上義光記』には「直江は近習ばかりにて少も崩れず、向の岸まで足早やに引きけるが、取って返し。追い乱れたる味方の勢を右往左往にまくり立て、数多討ち取り、この勢に辟易してそれらを追い引き返しければ、直江も虎口を逃れ、敗軍集めて、心静かに帰陣しけり」とある。
 
この撤退戦は後世まで語り草になった。最上義光は兼続を「上方にて敗軍の由告げ来りけれども、直江少しも臆せず、心静かに陣払いの様子、(中略)誠に景虎武勇の強き事にて、残りたりと、斜ならず感じ給う」と評し、家康も兼続が[[駿府]]を訪れた時「あっぱれ汝は聞き及びしよりいや増しの武功の者」とおおいに賞賛したという。