「松平武聰」の版間の差分

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[[弘化]]4年([[1847年]])11月29日、先代藩主[[松平武成]](従兄にあたる)の[[末期養子]]として[[越智松平家]]を相続する。その[[通字]]により[[諱]]を'''武聰'''と改める。[[嘉永]]6年([[1853年]])、倹約令を出して不正を厳しく取り締まり、さらに[[高津川]]の治水工事や[[河鰭監物]]を登用して[[石見半紙]]、[[養蚕業]]などの[[殖産興業]]化を推し進めて藩財政を再建した。[[安政]]元年([[1854年]])12月15日、[[従四位]]下[[侍従]]・[[近衛府|右近将監]]に叙任される。
 
幕末期の動乱の中では、慶喜の弟であることから[[佐幕派]]に与した。[[慶応]]2年([[1866年]])の[[長州征討|第2次長州征伐]]に参加したものの、武聰は病に臥していたために指揮が執れず、[[長州藩]]の[[大村益次郎]]率いる精強な軍勢の前に[[山本半弥]]率いる藩軍は壊滅した。長州軍が浜田領に侵攻すると、7月18日に[[浜田城]]に火を放って杵築(現在の[[島根県]][[出雲市]])へ逃亡し、さらに[[松江市|松江]]に移った。浜田は長州藩の占領下に置かれたため、慶応3年([[1867年]])3月、[[飛地]]である[[美作国]]鶴田(2万石)に逃れて鶴田藩主となった。後り、特藩は2万8000石に加増される。後に6万1000石まで加増される。
 
[[明治]]2年([[1869年]])6月24日、[[版籍奉還]]により鶴田[[知藩事|藩知事]]に就任する。明治4年([[1871年]])7月15日、[[廃藩置県]]により知藩事を免職となる。明治6年([[1873年]])3月23日、隠居して長男[[松平武修|武修]]に家督を譲る。明治15年([[1882年]])[[11月7日]]、41歳で死去した。